間違いなく、人生最悪の夜『ナイトコール』レビュー
ベルギー、ブリュッセル。
鍵屋として働く青年マディ(ジョナサン・フェルトレ)はある日クレールと名乗る女性(ナターシャ・クリエフ)から部屋の鍵を開ける依頼を受け彼女のアパートへと向かう。
すぐにドアを開錠し支払いのため現金を下ろしにいったクレールを部屋で待っていると、彼女から電話が掛かり「男が帰る前に部屋を出て」と告げられる。戸惑うマディの前に男が現れ、いきなりマディに襲いかかる。実は男は部屋の住人で、クレールと名乗る女性がマディに鍵を開けさせ部屋にあったバッグを持ち去っていたのだ。バッグはマフィアのボス、ヤニック(ロマン・デュリス)のものだった。
マフィアに捕らえれたマディは自身の無実を証明するため取引に応じざるを得なくなる。朝までの数時間でクレールとバッグを見つけるよう命じられたマディはヤニックの手下のテオ(ジョシュ・ブロケ)と捜索に街へ出る。ブリュッセルではその夜ちょうど、“ブラック・ライヴズ・マター”(BLM)のデモが繰り広げられており、至る所で警官と市民の衝突が起きていた。混乱する街をマディは命がけで奔走するが、その一夜は彼の運命を大きく変えてしまうものだった…。
ただ鍵を開けただけなのにーー。巻き込まれて人生がどんどん変わっていく主人公、マディが気の毒でならない。昼間は学生、夜間は何時でも客の元へ駆けつける鍵のレスキューとして働く真面目な青年には裏社会もBLMのデモも全く関わりのないものだった、ほんの数時間前までは。それが今やマフィアと一緒に血眼になって謎の女性クレールとバッグを探している。
売春宿やナイトクラブ、ブリュッセルの裏と闇の世界に足を踏み入れるマディ。恐怖と不安にさいなまれるが明朝のタイムリミットまでバッグを取り戻せなければ、それはすなわち死を意味する。
警察に相談するかーー?その夜行われていたBLMのデモは、警察が黒人の青年に暴力をふるい死なせてしまった事件が発端だった。黒人である自分が警察に訴えたとところで、相手にしてもらえないどころか亡くなった青年と同じように虐待されるに違いない、警察に頼ることなど到底できない。
極限状態に追い込まれたマディは次第に違法な行為を厭わなくなる。窃盗、暴力、脅し…普段の温厚な彼ならば決して手を出さない行為に手を染めてゆく。日常から足を踏み外すのはこんなにもハードルが低く、寄る辺がない者は犯罪を犯すしかなくなる現実に身震いがする。
重苦しく暗いテーマだが内容は非常にテンポが良く疾走感に溢れている。マディは一晩中何度も何度も追われそして追い詰められるがその度に知恵と工夫で必死に逃げ出してゆく。ジェットコースターのようにどの場面もスリルと緊迫感に満ちており、安心することも、飽きることもないまま物語はラストシーンへと走り抜けてゆく。
味方もいない八方塞がりの中、マディの逃走劇はいったいどんな結末を迎えるのか。混沌のブリュッセルでお互いに憎み合い、罵り合い、傷つけ合うそんな一夜にふさわしい救いのないラストを期待するしかない気がした。しかしマディが、権力も地位も影響力も無い、ただの青年が最後に下したある決断が暗闇に一筋の光明を投げかける。憎み合い、罵り合い、傷つけ合う世界の夜にほんの小さな希望の光が差す時、朝が来ることをまだ信じていたい。作品にはそんな祈りにも似たメッセージが込められている。
不運な主人公マディを演じるのは、短編映画『Soldat noir』 (21)のジョナサン・フェルトレ。追い詰められながらも生き延びるため奮闘する普通の青年マディを見事に演じきった。謎の女性クレールを『Anissa 2002』(15)の主演Anissa役でバンクーバー国際映画祭で最優秀演技賞を受賞、ミュージカル『Aladin』(16)ではモリエール賞の最優秀ミュージカル女優賞にノミネートされたフランス出身の俳優ナターシャ・クリエフが演じた。本作でベルギーのアカデミー賞、マグリット賞助演男優賞を受賞したベルギー出身の俳優ジョナ・ブロケが事件の鍵を握るマフィア、テオを演じている。街を取り仕切るマフィアのボス、ヤニックを『スパニッシュ・アパートメント』(02)、『ロシアン・ドールズ』(05)などで知られ『ゲティ家の身代金』(17)などハリウッド映画でも活躍する、フランスを代表する俳優ロマン・デュリスが特別出演で演じている。監督は本作が長編デビューとなるベルギー出身のミヒール・ブランシャール。本作でマグリット賞の4部門(最優秀作品賞、最優秀長編作品初監督賞、最優秀脚本賞、最優秀監督賞)を受賞した若き才能の今後の作品に期待が高まる。
“フィルム・ノワール”という言葉が脳裏に浮かぶお手本のようにシンプルでスリリングなクライム・ムービーだが、それだけではなく背景にある人種差別問題や社会の断絶・対立を完璧に融合させた、非常に知的な物語でもある。
文 小林サク
『ナイトコール』
2025年10月17日(金)新宿武蔵野館ほか公開
監督・脚本:ミヒール・ブランシャール
キャスト: ジョナサン・フェルトレ ナターシャ・クリエフ ジョナ・ブロケ ロマン・デュリス
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