ふたりの姉と、ふたつのカメラ『トトとふたりの姉』レビュー


私たちは映画を観て、笑い、悲しみ、腹を立て、耽美し、戦慄する。
そして、しばしば考え込んでしまい、感情が表出することを躊躇う。
「この笑いは、あの登場人物を卑下しているから込みあげてくるのではないか?」と。
「この涙は、あの登場人物に同情している自分に酔っているから流れるのではないか?」と。

このような思考は、劇映画よりもドキュメンタリー作品に於いて顕著に表れる。
多幸感を齎してくれる慈愛に満ちた家族は、地球の裏側で実際に暮らしているし、落涙を禁じ得ない悲惨な環境に身を置く人々は、すぐ隣で現在も生きている。
スクリーンに映し出されるのは、真実を切り取った光景なのだ。

だから、質の高いドキュメンタリー映画に出会った時、私たちは被写体を凝視して心を動かし、心を動かされた事実を熟考する。
そして、モチーフを選んだ監督の強い決意(使命感、と呼んでも良いのかもしれない)に、思いを馳せる。

GW4月29日(土 祝)より、尋常ではなく心が動かされるドキュメンタリー映画が、ポレポレ東中野(中野区 東中野)で公開される。
遠く離れたルーマニアから届いた、姉弟の小さくて大きな物語……アレクサンダー・ナナウ監督の思いに迫ってみたい。

『トトとふたりの姉』作品解説:
ルーマニアの首都ブカレスト郊外にある団地に、三人の姉弟が暮らしている。長女のアナは、17才。自分たちの家を守ろうと懸命だが、夜な夜な部屋に集まってくるヤク中の男たちを追い出すことが出来ない。次女のアンドレアは、14才。幼い弟の世話を焼くしっかり者だが、しばしば姉と衝突して友だちの家で外泊する。長男で末っ子のトトは、10才。夜眠ることすら困難な生活で朝寝坊も多いが、無邪気で明るい姉弟のムードメーカーだ。子供たちの保護者であるはずの母・ペトラは、刑務所の中にいる。
ソファーベッドと棚があるだけの部屋を何とか快適にしようと、アナは友人に頼んで電気コンロを作ってもらう。しかし、服役中の母がヤクの売人だったせいもあり、今でも部屋にたむろしているジャンキー達からの誘惑に負け、しばしば自分も薬に手を出してしまう。
ナナウ監督が傍にいない時、アンドレアは監督から渡されたカメラで撮影している。周囲と衝突してしまうこともあるアンドレアだが、自撮りしている時には素直な感情を覗かせる。彼女は、こんな部屋で暮らすより、施設に入るのが良いのではないかと考えている。
トトは児童センターで、夢中になれるものに出会う。アンドレアと共に受けている課外授業の、ヒップホップダンスだ。授業時間だけで飽き足らず、暇さえあれば身体を動かしダンスの練習に明け暮れるトトだが、姉弟たちには更なる逆境が次々と襲うのだった――。

私たちは劇映画を観る時、カメラの存在を意識したりしない。演者たちの前には数え切れないほどの撮影クルーがいるのだと考えながらスクリーンを観るとしたら、誰が銀幕に映し出される物語に没入できよう。「このシーンはどうやって撮ったんだろう?」とか、「カットを割るタイミングが巧みだ!」とか、そんなことを思いながら観る映画は、余程の好事家でもなければ楽しめないだろう。
だが、ドキュメンタリー映画は違う。特定の被写体を撮らんと欲する監督の強い意思は、時に圧倒的な存在感となり、観る者は映っていないにも拘らずカメラを意識する。そして、撮影者と同化し、レンズが目に、マイクが耳になる感覚に陥り、銀幕に没入する。ドキュメンタリー作品に客観性が求められるのは、劇映画の数倍も監督の主義、主張が観客に影響を及ぼすことの裏返しだ。

アレクサンダー・ナナウ監督は、『Peter Zadek inszeniert Peer Gynt』(2006年)、『The World According to Ion B.』(2010年)と長編ドキュメンタリーを撮り続けている映画監督だそうだが、『トトとふたりの姉』では“撮影者の不在感”にとにかく驚かされる。まるで、ドラマを観ているかのようだ。
自らの弱さを嘆き、悲しみに身を震わすアナ。苛立ちを隠さず、部屋を出ていくアンドレア。打ち込めることを見付けた喜びで、少しずつ毎日が変わっていくトト。どの場面も、彼らはカメラを意識すらしていない(ようにしか見えない)。結果、観客は撮影者と同化するのではなく、恰かもマンションの一室に置かれた空き瓶にでもなった風情で、姉弟の日常の一部になる。
ナナウ監督は、被写体の前で気配を消す術に長けているのだ。
唯一、時おり登場する子供たちの母・ペトラだけが、カメラを強く意識する。逆説的に、ナナウ監督が子供たちから勝ちとった信頼の大きさが窺える。

そして、監督自身のカメラだけでなく、出演者に渡したカメラで撮影させる手法も、実に効果的だ。
ナナウ監督がその役目をアンドレアに据えたのは、この作品で発揮された最大の作家性である。観客が感情移入するのは、一番に彼女となろう。
アンドレアが自身に向けたカメラに吐きだす、怒り、悲しみ、そして喜びは、紛うことなく鑑賞者の心情とリンクする。『トトとふたりの姉』というタイトルとは裏腹に、作品の主役はアンドレアである。ひょっとしたらこのタイトルを考えだしたのは、彼女かも……そんな考えさえ浮かぶ。
もし、トトにカメラを渡していたならば、作品は台無しになっていたかもしれない。そして、アナに任せていたとしたら、凡庸な作品になっていたかもしれない(実はこれ、相当に酷いことを言っているのです。ご覧になったなら、お分かりいただけると思います)。

気配を消したナナウ監督の“冷徹カメラ”と、アンドレアの感情を投影した“熱血カメラ”……二つの“視点(フォーカス)”は、時に傷つけ合い、時に手を取り合い、『トトとふたりの姉』の世界を広く、深く描きだす。
そして、冷熱ふたつのカメラが写した世界に、ナナウ監督は極力恣意を挟まない。誘導的なモンタージュをカットインすることもなく、ましてや思わせぶりなBGMを付け加えたりすることはない。監督は、賭けた……否、信じたのだ、観客の心の動きに。
心を動かされた観客は、きっと銀幕に映る人々に寄り添いたくなる。傍に行って抱きしめたり、何らかの経済的な援助をしたりといったことは無理だとしても、必ずや彼らの置かれた状況が真実なのかを知りたくなる。調べた結果をSNS等に書き込んだなら、受け手だったはずの観衆は発信者となるのだ。
観る者が蝶の羽ばたき程度のことと思って取った行動は、ジェット気流となって世界(グローバル)を席捲するのである。良くも悪くも、IT社会というのは、そういうものだ。

作品を鑑賞した観客の心を動かすこと、それは全ての表現の最大の存在意義である。もちろん、映画だって例外ではない。
だが、ドキュメンタリー映画は、それだけでは駄目なのだ。観客の心を動かし、大いに考えさせること、それがドキュメンタリー映画の存在意義である。そして、考えた結果、行動を起こさせること、それがドキュメンタリー映画の使命なのだ。

劇映画であれば、思惟は鑑賞の、もしくは没入の邪魔になるかもしれない。だが、ドキュメンタリー作品ならば、大いに結構、むしろ正しい鑑賞法だ。
あまつさえ『トトとふたりの姉』は、鑑賞している最中から思考を促され、観終わった頃には行動を起こしたくなる。
また一つ、優れたドキュメンタリーに――優れたドキュメンタリー監督の作家性に、触れることができた。

文:高橋アツシ

『トトとふたりの姉』
4月29日(土)より、東京・ポレポレ東中野にてロードショー、ほか全国順次公開。
©HBO Europe Progr­amming/Strada Film

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