あの頃の私が、ここにいる『ルノワール』レビュー
初の長編監督作品『PLAN 75』(22)が第75回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門でカメラドール特別賞を贈られるなど、各所で高い評価を得た早川千絵監督の新作はある少女が過ごす夏の物語だ。
1980年代後半、日本がバブル経済に沸いていた頃。11歳の少女フキは両親と3人で郊外の家に暮らしている。父の圭司(リリー・フランキー)は闘病中で、母の詩子(石田ひかり)は家族を支えるため必死に働いている。ときおり大人の世界をのぞき見しながら、フキは独特の想像力と好奇心に満ちた世界を生きていた。しかし、父は闘病に苛立ちを募らせ仕事に追われる母との間に軋轢が生じていき、その変化はフキの世界にも少しずつ変化をもたらしていく。
80年代の雑多な空気の中、フキの中には自分だけの世界が広がっていた。豊かな想像力は周囲を戸惑わせることもたびたびで、学校の作文に自分が殺される夢を見たと書いたり、作文のタイトルに「みなしごになってみたい」とつけ、先生を困惑させてしまう。それはもしかしたら父・圭司の病気が影響しているのかもしれない。圭司は癌を患っており、今年の夏を乗り切れるかと言われているが、本人は諦めておらず様々な治療法を模索している。母の詩子は管理職として仕事に追われながらも夫の世話やフキとの生活をこなし、心身ともに疲弊しきっていた。両親の間に広がっていく溝を感じる中、フキは様々な事情を抱えた大人たちと出会う。
同じマンションの住人・久里子(河合優実)は若い未亡人で、フキを部屋に招き入れお喋りをするうちに打ち明け話を始める。彼女の話は理解できない気もしたけれど、フキはそっと耳を傾ける。
圭司の病状が思わしくない中、詩子の取引先の人間であるという御前崎(中島歩)が圭司の病室を訪れる。彼の妻が健康食品を扱う会社を経営しており、癌に効果があるらしい。商品を持って来てくれた御前崎に両親は感謝しており、彼は良い人のようだがフキの心はなぜかざわめく。
最近フキには濱野(坂東龍汰)という年上の友達が出来た。濱野はフキの事を知りたがり2人は電話で色んな話をしたが、今度濱野と会うことになりフキはとても楽しみにしている。色んな大人と出会ったけれど、上手く言えないけれどお父さんもお母さんも他のみんなも、大人なのに何だか寂しそうなのだ。
この作品を観て思い出した。しばらく忘れていたけれど思い出した。子供の頃はこんな世界だったのだ。あの頃の世界は完璧だった、もちろん1つも完璧じゃないんだけれどそれ込みで完璧だったのだ。例えばテレビを見ているそばで大人たちが深刻な表情で話し合っていたり、夜中にふと目を覚ました時階下で両親が言い争っていたり、“何かしら良くないこと”が起きているのを子供はちゃんと気づいている。それが完璧な世界にどう影響するかなんて考えないし、完璧な世界が崩れるとは思わないけれど、何かが起きているのは感じるのだ。その感情を上手く言葉に出来ないし、言ったところで子供には何も変えられないと分かっているから今ある完璧な世界に没入するのだ。
昔は大人と大人の世界は完璧なのだとも思っていた。大人は何でも出来て何でも分かっていて決して失敗をしない。大人のすることが間違ってるなんて思ってもみなかったのだ。しかし実際はいくつになっても人生は思い通りにならず、出来ないことばかり、苦手な人や嫌いな食べ物は無くならず、いつまでも寂しさはつきまとう。大人なんて全然完璧じゃない、そう気づいた時、子供の完璧な世界は終わりに向かい始める。
フキが経験するこのひと夏は、まるで子供時代の最後のステージの幕が開いたかのようなくっきりと明るくまばゆい輝きに彩られている。いつまでも無邪気ではいられない哀しさ、人生の可笑しさと切なさを胸にしまって彼女はまた1つ大人へと近づいて行くのだ。
フキ役を演じたのは撮影時に役柄と同じく11歳だった鈴木唯。思春期一歩手前で、大人の世界への好奇心と不安に揺れる少女を時に淡々と、時に大胆不敵に、ほとばしる生命力で演じきっている。フキの母・詩子役には石田ひかり。強い女性が夫の看病と仕事の狭間で心を惑わす姿を繊細に演じている。
父・圭司役にはリリー・フランキー。言葉少なで感情を荒らげることはない父だが、生への希望と死を待つ諦念の間で彼もまた揺れ動いている。フキをとりまく大人たちには中島歩、河合優実、坂東龍汰など、人気俳優が顔をそろえた。また本作は2025年の第78回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、早川監督にとっては2作連続でのカンヌ映画祭出品となった。
自分の子供の頃はフキとはまるっきり違うと思う人もいるかもしれない。けれど少なくとも自分は昔完璧な世界にいて、いつしか不完全な世界に気づき今はそこに生きている。それを思い出させてくれたこの作品にとても感謝したいと思うのだ。
もしかしたら子供時代の片鱗に出会えるかもしれない本作を是非、劇場で。
文 小林サク
『ルノワール』
キャスト: 鈴木唯 石田ひかり 中島歩 河合優実 坂東龍汰 リリー・フランキー
脚本・監督:早川千絵
© 2025「RENOIR」製作委員会 /International Partners
配給:ハピネットファントム・スタジオ
6月20日(金)新宿ピカデリー他全国ロードショー