画になる街に匂ひたつ『函館珈琲』レビュー
砂山の砂に腹這い
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
流浪の歌人・石川啄木がそう詠った函館は、古今を問わず芸術家に愛される港街である。
そんな“画になる街”を映画界が放っておくはずもなく、函館を舞台にした作品は数多く作られ、その多くは映画ファンに愛されている。
“函館映画”というジャンルで括っても良いのではないか、そんな綺羅星の如き作品群に、また一つ傑作が生まれた。
タイトルもズバリ『函館珈琲』というその映画は、ユーロスペース(渋谷区 円山町)での上映も好評で、いよいよ全国で、そして地元・函館での公開を迎えようとしている。
『函館珈琲』ストーリー:
北海道函館市、大門や五稜郭などの繁華街からちょっと外れた通りの片隅に、【翡翠館】はある。管理人の荻原時子(夏樹陽子)は様々なクリエイターを住人として迎え、共同生活を送りつつ作品を発表するスペースを提供している。
ガラス職人の堀池一子(片岡礼子)は、とんぼ玉を製作し、販売している。アトリエ兼ショップの【薄荷堂】では、店頭だけでなく注文販売も手掛けていて、時折とんぼ玉を製作体験できる参加型ワークショップも行っている。
テディベア作家の相澤幸太郎(中島トニー)は、オリジナルのテディベアを製作するだけでなく、リペア(修理)も扱っている。怪我を治すため入院しているテディベア達で、いつも【BEAR FACTORY】のベッドは混雑している。
写真家の藤村佐和(Azumi)は、撮影に出掛けては、翡翠館の2階で現像している。動かない対象物の時間に寄り添う佐和の撮影は独特で、印画紙に浮かび上がる光と陰は、物言わぬ被写体の声を映しているかのようだ。
夏、翡翠館に新たな住人候補、新人小説家の桧山英二(黄川田将也)がやってくる。執筆活動には広すぎる蔵として使われていたスペースをあてがわれた桧山は、手荷物から手挽き式のミルを取り出すと、一子と幸太郎に珈琲を振る舞う。
『函館珈琲』は、【函館港イルミナシオン映画祭】から生まれた映画である。
オリジナルシナリオをもとに映画を創ることを標榜した【シナリオ大賞】が前身のイルミナシオン映画祭には、毎年数多くの好シナリオが集まる。受賞した10本のシナリオは映像化され、長・短編合わせて14本の映画作品となっている。
いとう菜のは氏の手によるシナリオ『函館珈琲』は【第17回 函館港イルミナシオン映画祭】で函館市長賞を受賞し、西尾孔志監督(『ソウルフラワートレイン』2013年/97分『キッチンドライブ』2014年/80分)のメガホンにより映画化された。
『函館珈琲』は、文学的表現に溢れている。
一子が案内する“ガイドブックには無い”函館、幸太郎が語るテディベアの誕生史、さり気なく本質を衝く箱館戦争論、とんぼ玉の製造工程、古書ビジネスの側面……それだけで1本の作品がかけそうなモチーフが、随所に鏤められている。
衒学的(ペダンチック)な手法は、まるで質の良い探偵小説を読んでいるかのようで、いとう氏のシナリオは作家性に溢れている。そういえば、“薄荷堂”(hakkadou)は、“函館”(hakodate)、そして“北海道”(hokkaidou)のサブリミナルとも思える。まさに、ミステリー小説に隠された伏線を読み解いているかのようだ。
ミステリー小説――そう、群像劇を織りなす登場人物たちは皆、人生に迷い、逃げだしそうになりながら、必死に答を求めている。無理難題を前に藻掻き苦しむ、“迷”探偵の姿そのものだ。
そして、『函館珈琲』は、自らミステリー作品であることを拒む。人生という難問を解き明かすのは登場人物ではなく、銀幕を凝視している観客一人ひとりなのだと、静かに、強く訴える。まるで、【日本推理小説三大奇書】の一つに数えられながら自らを“アンチ・ミステリ”と強硬に主張する『虚無への供物』(著:中井英夫)のようではないか。
そんな小説的とも言えるいとう氏のシナリオの空気を活かしつつ、娯楽作品として成立させたのは、西尾孔志監督の手腕という他はない。
函館山だけではない電照(イルミナシオン)、地元の人で賑わうラーメン屋で塩ラーメンを注文する佐和、桧山が必死にペダルを漕ぐ坂から見下ろす街並、迷う若者の髪を悪戯に遊ばせる潮風、心の揺れと同調する路面電車……どれもこれも、観る者の胸を真っ直ぐに射抜く。
『ソウルフラワートレイン』でも、西尾監督は同名の原作漫画(作:ロビン西原)の雰囲気を十二分に再現していた。キャラクター造形が大きく変わったにも係わらず原作の空気感を違えず、何より大阪の街が持つ得体の知れない空気に溢れていた。
『函館珈琲』も、函館が息づいている映画である。
坂道ならば、小樽でも長崎でもある。美しい夜景や港は、神戸にもある。ラーメンが美味しい街も、路面電車が生き残っている街も、函館だけではない。むしろ、その全てが揃っている街は、探せば函館以外にもある。でも、『函館珈琲』の登場人物たちは、函館でなければ駄目なのだ。来る者、住む者、去る者、様々な人々の心情が、繊細に、丁寧に描き出される。
いとう氏のシナリオに鏤められた文芸的要素を、拾い上げ、損ねることなく、生命を宿った映像として再構築する。これは、西尾孔志監督でなければ出来ない芸当である。
『函館珈琲』は、観る文芸作品なのだ。
今回、西尾孔志監督といとう菜のは氏に、幾つか質問することが出来た。
大変お忙しい中にも係わらずご回答を頂いたので、お二人の厚配に格別の感謝を申し上げつつ、こちらに再現させていただく。
西尾孔志監督、いとう菜のはさん、本当にありがとうございます。
Q. 珈琲がコミュニケーションに欠かせないキーアイテムとなっていますが、珈琲には思い入れがあるのですか?
いとう菜のは 子どもの頃、お砂糖もミルクも入れないコーヒーを飲める日が来るなんて想像もできなかったのに、今では立派な珈琲中毒です。そこに至るまでの人生のグラデーションを描くのが映画であり、一杯のコーヒーがもたらすシンプルかつ深い味わいは、立ち止まっている全ての人の背中を押す作用があると思っています。私の人生に欠かせないもの。それは「映画」と「コーヒー」です。
Q. 所謂ガイドブック的な風景ではないのに、紛れもない“函館感”が溢れています。『ソウルフラワートレイン』も大阪の空気感が凄く漂っていましたが、“街”を描くことに拘りをお持ちですか?
西尾孔志監督 函館を「さびれていく街」と描く映画が多いのですが、実際に遊びに行くと意外に楽天的で「北のラテンやな!」と驚かされます。僕が実際に感じた「陽気で呑気でちょっぴりナイーヴな函館の空気」を、映画の中に感じて頂ければ嬉しいなと。
Q. 「ここを観逃さないでほしい!」と思うポイントは、ありますか?
いとう 「ポイント」というのは難しいのですが、淡々と流れるストーリーなので、人物の心の動きや変化は緩やかにさりげなく描かれています。それぞれの人物の気持ちに寄り添って観ていただければと思います。
西尾監督 この映画は「珈琲」というタイトルですがグルメ映画ではありません。珈琲を飲む時にぼんやり考え事をしたりするように、この映画もリラックスして冒頭から最後までゆっくりご覧いただければと願います。
Q. 『函館珈琲』は、どんな方に観てほしい映画だと思われますか?
いとう 翡翠館の住人たちのアートは「自分らしさ」の象徴なので、それに出会えている時点で実はとても幸せな人たちだと思っています。それでも彼らは、社会の価値観の中で、自分の存在意義について漠然とした不安を抱えて生きています。迷ったり、間違えたり、失敗して立ち尽くしたり。そんな経験を一度でもしたことのある、おそらく世の中の全ての人に観ていただきたいです。
西尾監督 忙しさに追われてる方、最近ちょっと自信を失ってる方、少し傷ついたことがあった方・・・。そんな方に、ほっと一息ついて貰えれば、この映画は成功だと思います。
『函館珈琲』が文学的表現で彩られているのは、函館そのものが文学的な街だからなのかも知れない。
いとう氏が感じた函館の詩情を、西尾監督が街の空気として体感したからこそ、『函館珈琲』は“観る文芸作品”となったのであろう。
石川啄木が貧しいながらも生活の支えとなった援助者と巡り会えたのも、函館の風土が生んだ奇蹟だったのかも知れない。
だからこそ、啄木は芸術の街・函館をこよなく愛し、自らの墓所に選んだのであろう。
昔も今も、函館は、芸術家と相思相愛の関係を結んでいるのだ。
文 高橋アツシ
©HAKODATEproject2016
映画『函館珈琲 HAKODATE Coffee』