“私”が輝く 群像ドキュメント『ディオールと私』レビュー
――“私”が輝く 群像ドキュメント―― 『ディオールと私』レビュー
「どこにいても何をしても、クリスチャン・ディオールの名前がついてまわる。もううんざりしている」
死の一年前……1956年の回顧録に書き記した文章をなぞる時、御大クリスチャン・ディオールの苦悩がまざまざと浮かび上がる。
2012年7月――パリでは、秋冬の新作オートクチュールの発表に色めき立っていた。殊に、古豪ブランド“クリスチャン・ディオール”のコレクションは、特別な意味合いを持っていた。この年の秋冬は、新たにアーティスティック・ディレクターに就いたラフ・シモンズにとって初めてのコレクションだったのだ。
クリスチャン・ディオールが、前任者の解雇により1年以上空席となっていたレディース部門の主任デザイナーにラフ・シモンズ氏を迎えると発表するや、ファッション業界は騒然となった。オートクチュール経験が無く、前歴のブランド“ジル・サンダー”のイメージもあって“ミニマリスト”と称されるベルギー出身の44歳が、モンテーニュ通り30番地の最上階――クリスチャン・ディオールのアトリエを率いるのである。しかも、通常オートクチュールのコレクションに費やされる期間5~6ヶ月に対して、ラフに与えられた時間は、僅か2ヶ月――前代未聞の8週間を、史上初めてディオールの中枢に入ることを許されたドキュメンタリー監督フレデリック・チェンの眼が、鮮烈に写し取る。
アトリエ職長の手からデザイン画が作業台の上に広げられると、クチュリエ(裁縫師)たちは自らの手で担当するデザインを選ぶ。もちろん、職長自らも針を振るう――ここは、オートクチュールのアトリエなのだ。ラフの10年来の片腕ピーター・ミュリエーは、ドレス部門職長フロランス・シュエとスーツ部門職長モニク・バイイを「彼女たちは手の中にあらゆるものを持っている」と評する。
だが、そんな“神の手”を持つお針子たちを持ってしても、今回のコレクションは一筋縄では行かない。ラフは、現代芸術家スターリング・ルビーの絵画にインスピレーションを受け、とんでもない布地を発注する。ファブリック・コーディネーターのナディーヌ・プロは難色を示すが、ラフは諦めない。コレクションの社内発表会当日、アトリエでは全員総出で仮縫いの真っ最中……ラフは、到着しない作品に憤慨し、ディレクターのカトリーヌ・リヴィエールに不満を爆発させ、顧客から急な呼び出しを受けて海を渡った責任者に激昂する。完成させたはいいが急な変更の命令にスーツ部門主任デザイナーのフルヴィオ・リゴーニは頭を抱え、やっと縫い上がったドレスを運ぶクチュリエたちの乗ったエレベーターは故障する――ありとあらゆるトラブルが、ディオールのメゾンに降りかかる。
コレクションの会場も決まり、ラフの斬新なアイデアが冴え渡る……と思いきや、マスコミへの対応をオリヴィエ・ビアロボス広報担当からレクチャーされると、途端にラフのメディア嫌いが首をもたげる――それでいて、よくもこうしてドキュメンタリー映画のカメラの前に立っていられるものだと、半ば感心する。
12のコンセプト、54体のオートクチュール、そして、100万本の花――コレクションまでに与えられた時間は、3分の1――。
孤高の美、神の指先、交渉の達人、40年のキャリア、会話の魔術師――多彩な才能がスクリーンを犇めきあう90分は観ごたえ充分で、まさに至高のエンターテインメントである。天才たちがチームを成していく過程が、観る者の胸を大いに打つ。劇映画では群像劇と呼ぶのだから、ドキュメンタリーでは“群像ドキュメント”と呼びたい。
人間は社会的な動物――とは、よく言ったものだ。それが証拠に、私たちはスクリーンの中につい“私”を見つけてしまい、ついつい感情移入をしてしまう――映画と言う娯楽の中にさえ社会を見いだし、自らの耳目で疑似体験してしまう。
『ディオールと私』で、あなたが見いだすのは、どんな“私”なのだろうか――。
前代未聞の超一流“群像ドキュメント”、どうか御観逃しなく。
文 高橋アツシ
『ディオールと私』
キャスト ラフ・シモンズ、D iorアトリエスタッフ 監督 フレデリック・チェン
公式サイト http://dior-and-i.com/
©CIM Productions
3月14日(土)、Bunkamuraル・シネマ他全国順次ロードショー