百人百様で、生きる『風の波紋』鑑賞記


_1110015「私は関西の大学だったんですけど、最初の記録映画の助手の仕事を名古屋でスタートしました。現場は知多にございます障碍を持ってる方々のグループで、千種区の【さわらび園】と言う施設に寝泊りして毎日一時間ほど車で通いまして、それが私の24~5歳の頃の仕事でございます。【AJU自立の家】の主催で『福祉映画祭』を名古屋で二十数年やっていて毎回来させて頂いたり、刈谷で呼んで頂いたり、大変縁がある名古屋シネマテークでやって頂きまして、本当に有難うございます」

2016年5月7日、万雷の拍手の中、壇上に立った小林茂監督は笑顔で話し始めた。この日、名古屋シネマテーク(名古屋市 千種区)ではドキュメンタリー映画『風の波紋』が初日を迎えていた。

《よろしければ、こちらもどうぞ》
【田を凍み渡る風の音『風の波紋』レビュー】
_1110021
小林茂監督 私の前作はアフリカの子供たちの映画(『チョコラ!』(2009年/94分))だったんですけど、その過程で腎臓機能がだいぶ落ちまして、腎不全から人工透析になりました。ちょうどその頃、一緒に『阿賀に生きる』(1992年/115分)を作ってきた佐藤(真)監督が急に亡くなりまして、喪失感の中、私は非常に体調を崩しました。鬱病の状態を繰り返していまして、映画作りはほとんど諦めていたんです。ひょんな所から長い付き合いのある木暮(茂夫)さんが移住している松之山(現:十日町市)に訪ねて行くことがありまして、映画の中でもあったような蕎麦を打ってくれたり、山ぶどう酒を持ってきてくれたり、歓待してもらったんです。夏だったんですが皆4~5時に仕事に出掛けますから、私が起きた6時頃には誰も居なくて、「昨日の宴会は幻だったんじゃないか」と思いながら山々を眺めますと、太陽の光が樹々の夜露に反射して山が光っておりました。それを見た瞬間に、何か走馬灯の如く私の幼い頃のこと、生まれ育った村のこと等を想い出しまして、ほんの小さい炎として「ここなら映画を撮れるんじゃないだろうか」と思ったのが、この映画の初めです。1年ほど掛けて制作指示書を作りまして、皆さんの中からカンパを頂きながら、5年の歳月が掛かりましたけれど、何とかゴールすることが出来ました。この中にも何回もカンパをして頂いている方がいらっしゃいますので、本当に有り難いことだと思っております。

小林監督は、『風の波紋』制作に費やした長い長い期間に想いを馳せると、観客席に向かって静かに頭を垂れた。

小林監督 この映画は、里山を讃美する様なつもりの映画ではございません。様々な受け取り方が出来るかと思いますけど、それで良いと思っています。結論的に言えば……狐に化かされたと思って、諦めて頂きたいと思います(場内笑)。今日は私の方から特に希望いたしまして、皆さんからのご意見なりご質問なりをお受け出来ればと思います。ご感想も含めて、どなたかよろしいでしょうか?

――雪の関して、並々ならぬ拘りがあるのでは?
_1110022
小林監督 雪には、“子どもの雪”と“大人の雪”がございまして、“子どもの雪”は楽しいんですよ。私の子ども時代は雪は楽しむ物で……雪が降れば、世の中が、世界中が、真っ白になっていくんですよね。そして、ソワソワして……大人が浮つき始めますし、子どもはスキーを……スキーと言っても、今みたいに良いスキーではありませんで、板に仏壇から盗んだ蝋燭を塗ったような(笑)。それから、春先に近付きますと、雪が太陽の熱で解けます。それが夜になると放射冷却現象で凍る訳ですね。翌朝には一面、子どもが自転車に乗れるくらいになるんです。そう言う朝は、忙しいんです。日ごろ学校に行くのにギリギリまで寝てるんですけど、5時には起きまして、先ず土手の坂で橇で遊んで、それから態々走り回って学校に行って……見渡す限り子どもが居るんですよ。中には落ちた奴が一人二人いまして……肥溜めに落ちるんですね(場内笑)、肥溜めは温かいんで。だから、何処に肥溜めがあって、何処に川があるか、日ごろから憶えとかないといけないんです。また、雪が降りますと藁長靴を履いて隣の家まで雪道を付けると、隣近所が褒めてくれるんですよ。またある時、仲間で山スキーに出掛けて遭難しまして……7~8人のグループで、僕は小学校の低学年、年長者は高学年でしたか。何か食料を見つけなきゃいけないと言うことで、偶々そこに針金で作った罠がありまして、しかも引っ掛かってたんです、兎が。これを食べなきゃって、ナイフやマッチくらいは持ってますんで、それを解体して火で炙って……私は、肋骨を食った覚えがあります(笑)。やっぱり子どもですね……そんな罠があるってことは、里山が近いってことなんですよ。食べて「もうちょっと頑張れ」なんて言ってたら、すぐ里山がありまして(場内笑)、何のために食ったのか分かんないんですけど(笑)。そんな風に、“子どもの雪”は非常に楽しい物なんですが、大人になりますと不便ですし雪は楽しくないんですね。その頃は高度経済成長ですし、雪が嫌で都会に出て行ったり。でも、木暮さんなんかは、逆に楽しんでる所がありまして。毎日毎日、積雪を測ってまして、「よっしゃ、もうちょっとで5mになるぞ!」とか言ってるんですね。地元の人に言うと、「何をやってるんだ」となりますよ(場内笑)。映画の冒頭で、70歳近いご婦人の雪下ろし……凄かったですよね?要するに、男は皆出稼ぎに行った時代なんで、村を守ったのは女たちなんですよ。撮影が終わった後、米川さんって言うんですけど、一言「お前たちが映画を撮るって言うから今日はシャベルにしたけど、いつもはスノーダンプなんで」って……サービスのために、シャベルでやってくれたらしいんですね(笑)。冬になると大地は休みます。春、雪のない土地でジワジワと伸びていく山菜は美味くないんです。雪深い土地では解けた瞬間に伸びるもんで、アスパラガスも山菜も美味しいんです。だから、縄文の遺跡は、雪国の方が多いんですね。ブッシュの中では難しいけれど、白い所に動物がいれば、射ることが出来ます。私たちは、効率とかお金とかに全てを換算する習性が70年くらいで付いちゃっていています。不便なんだけど美しい、不便なんだけど生きることに忙しい、そんな生活を描きたいと思ったんです。ニュースでやるように、“ドサドサッと降って辛い辛い”と言うような映画にはしたくないと思っておりました。

――音楽を担当された天野季子さんとは、どのように出会ったのですか?

小林監督 私は長いこと水俣病の支援活動をやっておりまして、新潟では『阿賀に生きる』と言う映画を作っております。その後25年間『阿賀に生きる』に出た人がどんどん亡くなっていくもんですから、毎年のように追悼上映をしております。そこに天野季子さんのお父さんがしょっちゅういらしてて、お友達だったんですね。ある時、「小林さん、向こうの方で映画を作ってるようだけど、家の娘が移住して暮らしてるんで、訪ねてくれないか?」と言われまして。足踏みオルガンで演奏してオリジナルを歌っているのを聴いたもんですから、「映画に使うかも分からないけれども、一曲オリジナルを作ってほしい」とお手紙でお願いしたことから、こう言うことになりました。
IMG_20160507_201909
その後ロビーで行われたサイン会は大盛況で、感想の一つひとつに丁寧に耳を傾ける小林監督の前から行列が消えるまでには、舞台挨拶より遥かに長い時間を要した。
一人ひとりの観客は思い思いの感想をスクリーンから受け取り、それぞれ十人十色、百人百様の『風の波紋』を感じたようだった。
十人十色、百人百様――それはまさしく、越後妻有の人々が、大都会の人々が、生きていく上で抱き続ける想いと同じなのかも知れない。
十人十色、百人百様――それぞれの想いを胸に人は生きてきたのだし、これからも生きていくのだから――。

取材 高橋アツシ

記事が気に入ったらいいね !
最新情報をお届け!

最新情報をTwitter で