ふれる指先で伝えたい。この世界、そして命の輝きを『奇跡のひと マリーとマルグリット』レビュー
19世紀末のフランス、ポアティエ地方。聴覚障害をもつ少女たちの学院に、ある晴れた日、一人の少女が父親に連れられやって来た。少女の名はマリー(アリアーナ・リヴォアール)。生まれつき目と耳が不自由なため何一つ教育を受けておらず、言葉は話せない。顔は薄汚れ、髪はボサボサ、すりきれた衣服をまとい、怒って暴れだすと手がつけられない、まるで野獣のような少女だ。
父親はわらにもすがる思いで、修道院が運営する学院に娘を連れてきたのだが、学院は聴覚障害専門を理由に受け入れを拒否する。しかしただ一人、シスター・マルグリット(イザベル・カレ)だけは、マリーの逞しい生命力に激しく心を揺さぶられていた。マルグリットは院長を説き伏せ、マリーを学院に引き取り教育を始めるが、マリーは全く言うことを聞かず、二人は激しくぶつかり合う。元々体が弱く、不治の病を患うマルグリットは、自身の命の期限を意識し、何とかマリーに「言葉」とそこから広がる「世界」を伝えようとする。
19世紀末に実在したマリー・ウルタンと、彼女に教育をしたシスター、マルグリットルの実話に基づく作品なのだが、概要を聞くとヘレン・ケラーとサリバン先生の物語を彷彿とするかもしれない。ヘレン・ケラーは出生時は目も見え耳も聞こえており、病気による後天性の障害なのだが、マリーの場合は先天性の障害だ。つまり、マリーはこの世の光や音、物には名前があること、言葉や身ぶりでのコミュニケーション、そして人間は生きていること、そんな世界のあらゆる全てを知らず育った。彼女の世界は暗闇と沈黙に包まれ、時おり誰かー自分以外の何かーの存在を感じるだけ。そんな少女に病身のシスターがたった一人、教育をするとは無謀としか思えない試みだった。
不安は的中し、マリーへの教育は困難を極める。マリーは髪に触られるのも、入浴するのも、ナイフやフォークを使い食事するのも大嫌い、人間らしく生活して欲しいマルグリットと、反発するマリー、二人はその度に取っ組み合いを繰り広げる。苦闘の甲斐があり、マリーは次第に生活に慣れ、髪を整え、服を着替えナイフとフォークを使い食事出来るまでになるが、言葉は理解出来ないままだ。マルグリットは指の手話を何度も繰り返し物の名前を伝えようとするが、意味が分からないマリーは苛立つばかり。しかしマルグリットは決して諦めるわけにはいかなかった、この世で生きるため、他人と繋がるために、言葉は絶対に必要なものなのだ。
マリーが学院に来て8か月目、ついにその時が訪れる。ふとした瞬間にマリーが言葉の存在を理解したのだ!そこから彼女の世界は驚くべきスピードで色鮮やかに広がっていく。あらゆる物の名前を知りたがり、触れたがる、野獣のようだったマリーが手話を学び、知識を吸収し生き生きした少女へ変化していく様は人間の成長そのものだ。
マルグリットとマリーは次第に本当の母子のような絆で結ばれるが、無情にもマルグリットの病状は悪化し続け、空気の良い土地で静養するよう院長に命ぜられてしまう。マルグリットが床に伏せるとマリーは進んで看病し、片時もそばを離れない。わがまま放題、野獣のようだった少女が人を想い、いたわることが出来るようになったのだ。マルグリットの教育は人間の生活や言葉だけではなく、深い慈しみの心までもマリーに刻み込んでいたのだ。マルグリットはなぜ、ここまで献身的になれたのか?消え行く自らの命を前に、マリーの力強い魂に無限の可能性を感じ、彼女に世界を教えねばならないという使命感がマルグリットを突き動かしていたのだが、同時にそれは命を繋ぐこと、自分という存在が消えても続く命のリレーでもあった。
人は死んでもその魂は受け継がれる、マルグリットがマリーに残したのは死よりも強い絆と喜びに満ちた人生だった。ラストシーン、天を仰ぎ真っ直ぐな瞳でマリーが見つめるその先には、マルグリットが伝えたかった世界の輝きが映っていたに違いない。観る人はそこに、限りない光と愛を見出だすだろう。
文 小林麻子
『奇跡のひと マリーとマルグリット』
監督:ジャン=ピエール・アメリス キャスト:イザベル・カレー、アリアーナ・リヴォアール、ブリジット・カティヨン
公式サイト http://www.kiseki-movie.jp/
(C)2014 – Escazal Films / France 3 Cinema – Rhone-Alpes Cinema
2015年6月6日(土)より、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開