イギリスが誇る社会派の名匠ケン・ローチ監督が映画界からの引退を表明して、3年が経とうとしている。
『この自由な世界で』(2007年/96分)で格差がもたらす闇を、『ルート・アイリッシュ』(2010年/109分)でイラク戦争の実態を、『天使の分け前』(2012年/101分)でスコットランド問題を、ローチ監督は全世界に発信し続けた。筆者は『麦の穂をゆらす風』(2006年/126分)を観なかったなら、愛英独立戦争のこともIRAのことも知らずに生きたかもしれない。
そんな“英国の良心”ケン・ローチ監督が集大成である『ジミー、野を駆ける伝説』(2014年/109分)を最後にメガホンを置いて以来、世界は分断の歴史を刻もうとしているように映る。利己主義が幅を利かせる現代だからこそ、社会派の急先鋒たるローチ監督は再度のメッセージ発信を決意してくれたのかも知れない。ケン・ローチ監督が引退宣言を撤回してくれたのは、映画ファンのみならず世界市民にとって最大級の福音である。
筆者がそんなことを実感するのは、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年/100分)を観たからだ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』ストーリー:
ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は、イギリス・ニューカッスル(ニューカッスル・アポン・タイン)のアパートで一人暮らしをしている。彼はベテランの大工だが、心臓病のため仕事を辞めるよう医者から勧告を受ける。天涯孤独のダニエルは役所に公的制度を申請するが、複雑な手続きによりなかなか支援を受けられない。
何度目かの再申請に訪れた職業安定所で、ダニエルはシングルマザー・ケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)と出会う。ロンドンから越してきたばかりの彼女は、子供たちの学校が明日から始まると言うのに公的支援が受けられず、知り合いもいないニューカッスルで途方に暮れていた。
なけなしの20ポンドでケイティを助けたダニエルは、デイジー(ブリアナ・シャン)、ディラン(ディラン・フィリップ・マキアナン)姉弟とも親交を結ぶ。次第に絆を深めるダニエルとケイティ一家であったが、社会の厳しい現実は徐々に彼らの生活を追い詰めていく――。

イギリスでは、善良な物語が好まれる。否、あまねく世界の人々は、善良な人が幸福になる物語が好きだ。
ダニエル・ブレイクは、善き人である。イギリス人ならではのアイロニーを会話に挟みつつ、なにかと年若い隣人・チャイナ(ケマ・シカズウェ)の世話を焼く。理不尽としか思えない対応をされても、アン(ケイト・ラッター)らケースワーカー達に悪態を吐きつつも良識ある態度を見せる。だからこそ、自分と同じように絶望の淵で心が折れそうになっているケイティを放っておくことができず、やんちゃ盛りのデイジー、ディランにも肉親のように接する。
そんな善人ダニエルが幸せに暮らせない社会を、ケン・ローチ監督は許すことが出来ないのだ。考えてもみるがいい。真っ当に暮らしていた自分に心ならずも援助が必要になった時、杓子定規のお役所仕事で申請を却下されたなら、まるで囚人番号のようなIDナンバーで呼ばれたならば、“申請者”や“申立人”といった不本意な立場を強要される日々が続いたならば、叫びたくならないであろうか――私を、何だと思っているんだ!と。
だから、『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、「善く生きてゆこう」と人々を啓蒙する物語ではない。「善く生きることができないのは、おかしいと思わないのか」と人々に訴える映画である。憂える作品ではない。怒れる映画である。一度はリタイアを表明したはずのローチ監督が前言を撤回したのは、なお鋭さを失わない“社会派の牙”を持つが故であろう。

小さなことで隣人に文句を言い、小役人の態度に挙げ足を取り、絶望の中で自暴自棄になる。そんなダニエルが善良な市民に見えるのは、デイヴ・ジョーンズの熱演があってこそだ。英国を代表するコメディアンという経験が、作品で如何なく発揮されている。
大事な約束に遅刻し、犯罪に手を染め、安易な道に逃げ込む。そんなケイティが健気なシングルマザーに映るのは、ヘイリー・スクワイアーズの繊細な演技があってこそだ。『わたしは、ダニエル・ブレイク』で英国インディペンデント映画賞の新人賞を受賞した彼女にとって、今作は名刺代わりの作品になったと言えよう。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』では、とにかく言葉が大切にされている。名監督ローチと長年に亘りコンビを組んできたポール・ラヴァティが書き上げた脚本は、数行の会話を丹念に磨き上げる。そして、名だたるキャスト陣が数秒の台詞に輝きをもたらす。登場人物の人と成りがはっきりとするほどに、社会の理不尽さがくっきりと際立つ。だからこそ、淡々としたラストが堪らなく胸を打つ。パルムドール(【第69回カンヌ国際映画祭】最高賞)受賞も、納得だ。
言葉といえば、ケン・ローチ映画にはお馴染みの題材・サッカーも、ちょっとした会話の中で顔を覗かせる。ローチ作品におけるサッカーとは、イギリス料理におけるグレイヴィソースのようなものである。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』は噛みつくだけの映画ではない。社会的弱者を公正に見つめる誠実な視点を持った作品である。寄り添うことを通り越して弱者そのものに同化するケン・ローチの視線は、そんじょそこらの“ジョン・ブル”とは訳が違うのだ。
世界が不寛容で染まりつつある今だからこそ観るべき作品が、間もなく劇場公開となる。これを“映画の力”以外の何と表現すれば良いのであろう。
ローチ監督が『ケス』(1969年/96分)から終始一貫ずっと信じたのは、映画が持つ人知を超えた力と、観客が持つ聡明な眼なのだ。忘れないようにしたい、私たちは誰しも名匠が信じ、託した眼を持っていることを――。

文:高橋アツシ

映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』
3/18(土)~ヒューマントラストシネマ有楽町他全国公開
配給:ロングライド
© Sixteen Tyne Limit­ed, Why Not Producti­ons, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,Bri­tish Broadcasting Co­rporation, France 2 Cinéma and The Briti­sh Film Institute 20­16
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