紅いべべ着た三歳っ子『蜜のあわれ』レビュー
時は戦後と呼ばれて久しい昭和30年代、真っ赤なドレスが目にも眩しい鄙には稀なモガ(モダン・ガール)と、古風な白い色無地を清楚に着こなした三十路女が、昼下がりの辻を闊歩する。
『狂い咲きサンダーロード』(1980年/98分)『ソレダケ/that’s it』(2015年/110分)の石井岳龍監督が満を持して世に送り出す新作は、“ネオ・モダン・ロマネスク”『蜜のあわれ』だ。芸術と世俗が、生と死が、夢と現が、互いに顔を出しては一つに溶け合う、世にも不思議な愛憎ファンタジーである。
『蜜のあわれ』Story:
作家(大杉漣)は、ひとり鄙びた別荘に暮らす。老齢の域に達して尚も自身の出生に蟠りを抱え、若くして生命を絶った芥川龍之介(高良健吾)の死に様に文学的意義を見出している。
赤井赤子(二階堂ふみ)は、自身を“あたい”と呼び、老作家を“おじさま”と呼ぶ。「おじさまの一日は、あたいの一ヶ月」と嘯く赤子の正体は、老作家が庭の池で飼っている金魚だと言う。
田村ゆり子(真木よう子)は、非業の死を遂げた女性の幽霊。この世に再び戻って来られたのは嘗て親交のあった老作家が望んでくれたからではないかと、密かに期待している。
赤子、ゆり子、更に謎の女教師(韓英恵)の存在が明らかとなり、齢70を越えた老作家の身辺は慌ただしい。ある決断をした赤子は、金魚売り(永瀬正敏)に頼みごとをする――。
そもそも『蜜のあわれ(蜜のあはれ)』とは、室生犀星の短編小説である。
室生犀星と言えば詩歌「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」(『小景異情』)が余りにも有名であるが、泉鏡花、徳田秋聲と並んで“金沢三文豪”と呼ばれながら郷里・金沢で地獄のような生い立ちを送った犀星を慮ると、その哀切の念は甚く胸を打つ。『小景異情』も故郷を偲んで詩ったのではなく、挫折の果てに都会と古里を往復する境遇の中で絞り出した“怨歌”だと言う。
そんな犀星であるが、齢を重ねると作風に変化を見せる。特に作品発表の場が閉ざされた戦中を潜り抜けた晩年の犀星は、軽やかな筆致で次々と傑作を産み出した。『杏っ子』『我が愛する詩人の伝記』『かげろふの日記遺文』の三部作は、1955年以降の作品である。1962年72歳で没した犀星が『蜜のあはれ』を世に出したのは1959年のことであるから、最晩年の心境を色濃く湛えた作品と言うことになる。
『蜜のあはれ』は会話文のみで構成され、その幻惑的な内容から、国内最初のシュールレアリズム小説とも称される。
石井岳龍監督『蜜のあわれ』は、そんな原作を映像化した作品である。室生犀星だからこそ描くことが出来た彼岸と此岸の“狭間”の会話劇を、石井監督は幻想的な映像と音で再現してみせる。赤子が翻す赤いドレスの裾襞に、ゆり子が黒髪を撫でつつ見据える川面に、映画館の角を曲がった狭い路地に、二人あやとりの網の間に、あの世とこの世の境界めいた景色が現れては消える。そして、水琴窟のような不可思議で幽玄な響きが、波紋の広がるようなイメージで耳を刺激する。
石井岳龍監督の作品は、“ゆるやかに滅びゆく世界”が好く似合う。
主演の二階堂ふみは高校生の頃から原作を愛読していたそう(!)で、かねてより赤子役を熱望していたと言う。念願叶った彼女はまさに“水を得た魚”で、今後『蜜のあわれ』が二階堂ふみの代表作に数えられることは間違いない。可憐で、妖艶で、しかも母性をも表現してしまう女優は、二階堂を置いて他にいない。
もう一人の主人公・大杉漣は、見事に室生犀星に成り切っている。否、“おじさま”は犀星自身とは言明されていないのだが(原作で、老作家の名は“上山”となっている)、風貌からしてやはり犀星である。現と夢、生と死の狭間で揺蕩う世界観は、大杉失くしては成立しない。
真木よう子は「心臓が止まるかと思った」と言う死人を演じ、永瀬正敏は怪しげなトリックスターと化す。そして、高良健吾がニヒルな微笑みでライヴァルを諭し、渋川清彦が絶妙なコメディ・リリーフを見せ、韓英恵がレトロスペクティブに一役買う。
フィルムの色合いがその全てを包み込み、ブラスや弦楽器のムーディな調べが匂い付けをする。
レトロで、エロティック。モダンで、コケティッシュ――石井岳龍流“昭和浪漫奇譚”……その佇まい、頗る非凡!
文 高橋アツシ
『蜜のあわれ』
4月1日(金)より、新宿バルト9ほか全国ロードショー!
配給:ファントム・フィルム
©2015『蜜のあわれ』製作委員会