どこまでも美しい灰色の空『雪の轍』レビュー


yukimain
――どこまでも美しい灰色の空―― 『雪の轍』レビュー

トルコ共和国アナトリア高原には、奇岩が密集した世にも不思議な景観が広がる一帯がある。世界遺産として名高い、“カッパドキアの岩窟”である。
火山地帯に由来するカルストの大地は何処まで行っても泥に塗れ、低く垂れ込めた雲のせいで何時も灰色の空が広がる。
冬が迫るカッパドキアにあるホテル“オセロ”――騒々しくも静謐で、愚かしくも美しい物語は、ここから幕を開ける。

『雪の轍』Story:
世界遺産のトルコ・カッパドキアに佇むホテル。親から膨大な資産を受け継ぎ、ホテルのオーナーとして何不自由なく暮らす元舞台俳優のアイドゥン。しかし、若く美しい妻ニハルとの関係はうまくいかず、一緒に住む妹ネジラともぎくしゃくしている。さらに家を貸していた一家からは、思わぬ恨みを買ってしまう。やがて季節は冬になり、閉ざされた彼らの心は凍てつき、ささくれだっていく。窓の外の風景が枯れていく中、鬱屈した気持ちを抑えきれない彼らの、終わりない会話が始まる。善き人であること、人を赦すこと、豊かさとは何か、人生とは?他人を愛することはできるのか―。互いの気持ちは交わらぬまま、やがてアイドゥンは「別れたい」というニハルを残し、一人でイスタンブールへ旅立つ決意をする。やがて雪は大地を真っ白に覆っていく。彼らに、新しい人生の始まりを告げるように。

『雪の轍』では、繰り返し“対立”が描かれる。
男性と、女性。夫と、妻。兄と、妹。大人と、子供。管理人と、店子。富裕層と、貧困層。
アイドゥン(ハルク・ビルギネル)は若妻の無軌道な行動に我慢がならず、ニハル(メリサ・ソゼン)は夫の気まぐれな束縛にうんざりしている。
妹の言うことが夢想としか思えない兄に、ネジラ(デメット・アクバァ)はその軽薄な文化人気取りの現状を鼻で笑ってみせる。
ヒダーエット(アイベルク・ペクジャン)はイリヤス(エミルハン・ドルックトゥタン)の行動を穏便に済ませようとするが、父イスマイル(ネジャット・イシレル)は立場を弁えない尊大さで応える。
その滑稽さ、愚かしさ、哀しさ、愛おしさ……トルコ映画界の至宝、ヌリ・ビリゲ・ジェイラン監督の手腕が冴え渡る。第67回カンヌ国際映画祭(2014年)パルム・ドール大賞を獲得したこの物語は、チェーホフの短編を材としたと言う。
人々は、対立しようとして会話をしているのではない。理解し歩み寄るために対話を試みるのだ。談笑はいつしか論戦となり、丁々発止の果てに決裂する。『雪の轍』は“会話劇の集積”と呼んでいい構成となっているが、対話は全て“要らぬ一言”が原因となって不和に終わる。これはまさに年齢も、性差も、文化も、宗教も、時代も超越して、万人が我が事として実感するであろう。古代、小アジアと呼ばれた交易の地で産まれた映画に世界各地から喝采の声が送られているのは、こんな所にもあるのかも知れない。
本格的に雪が降り頻り、赤い大地は白一色となる。冬の到来と共に人々に訪れた転機が齎すのは、絶望なのか、希望なのか――。

対立と言えば、もう一つある。美しくも厳しい自然と共存するカッパドキアと、劇中には全く登場しない大都会・イスタンブールとの対比である。
登場人物たちは、口々に言う。また、口には出さないまでもそこかしこで仄めかす。「イスタンブールでは、こうは行かない」と。
これは映画の根幹に係わることと言える。『雪の轍』と言う作品そのものが、「イスタンブールでは、こうは行かない」物語であるのだ。
(東)ローマ帝国、サーサーン朝、セルジューク朝、オスマン朝……長い長い歴史の中で様々な文化を、政治信条を、宗教を受け入れ、翻弄されてきたカッパドキアと言う土地ならばこそ、許せることがあり、譲れないものがある――何も言及されていないが、映画は雄弁に語りかけてくる。
作品を覆い尽くす、灰色の雲――3時間16分を体験した者には、それが堪らなく息苦しく、愛らしく、美しい。

文 高橋アツシ

6/27(土)角川シネマ有楽町、新宿武蔵野館
7/11(土)シネマ・ジャック&ベティ、伏見ミリオン座、シネ・リーブル梅田、京都シネマ、KBCシネマほかロードショー
出演:ハルク・ビルギネル、メリサ・ソゼン、デメット・アクバァ、アイベルク・ペクジャン、セルハット・クルッチ、ネジャット・イシレル
監督:ヌリ・ピルゲ・ジェイラン
配給:ビターズ・エンド ©2014 Zeyno Film Memento Fillms Production Bredok Film
『雪の轍』公式サイト

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