時代性と普遍性『この国の空』レビュー


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――時代性と普遍性―― 『この国の空』レビュー
『ヴァイブレータ』(監督:廣木隆一/2003年/95分)『共喰い』(監督:青山真治/2013年/102分)などで日本を代表する脚本家・荒井晴彦が『身も心も』(1997年/126分)以来18年ぶりのメガホンをとった2作目の監督作品『この国の空』が、いよいよ8月8日(土)より公開となる。

芥川賞作家・高井有一の筆による同名小説は1983年に世に出るや瞬く間に評判となり谷崎潤一郎賞を受賞した名著で、荒井監督は映画化の当てがないまま早々に原作の使用許可を申し出たと言う。

脚本を担当した『戦争と一人の女』(監督:井上淳一/2013年/98分)と同じように“戦争が終わって嬉しくないという主人公”の物語『この国の空』を、荒井監督は“ホームドラマ”と称し、巨匠作品でなくともレベルの高かった“1950年代の普通の日本映画”を目指したとか。

『この国の空』story:
終戦間近の1945(昭和20)年、父を亡くし、母と叔母と共に東京・杉並の住宅地に暮らす19歳の里子は、度重なる空襲に怯え、日に日に物価は高くなり、まともな食べ物も口には出来ないなかで健気に暮らしている。妻子を疎開させ、徴兵を逃れて隣に暮らしている市毛(長谷川博己)の身の回りの世話をしていくうちに、次第に惹かれていく――。

蔦枝(工藤夕貴)は、年頃の娘と妻子ある隣人との仲に心を痛めている。しかし、「“普段だったら”許しはしない」と、黙認するような素振りも見せる。

瑞枝(富田靖子)は、横浜の自宅を焼け出され、蔦枝親子の住む家に転がり込む。失くした家族の亡骸は見つからず仕舞いだが、早々に諦めたようである。

里子(二階堂ふみ)は、挺身隊逃れで町会勤めの身。彼女の周囲に若い男は皆無で、19歳と言う娘盛りは恋に身を焦がすことも無く過ぎさろうとしている。

銃後の難局を日常として生きる女たちだが、みな一様に逞しく、魅力的だ。

そんな非常時でも溢れる女性性の魅力には、妻子ある中年男・市毛(長谷川博己)でも抗うことが出来ない。蝉の音が耳を劈く中、己の情熱を発露する。

戦時中と言う“究極の非日常”に生きる人々の姿が、実に丁寧に活写される。特に食事の場面が丹念に描かれ、平和を謳歌する私たちには想像が難い“有事の日常”が、実に活き活きと映し出される。

有事だからこその恋情の身を灼く里子にとっては、戦争の終結は喜ばしいことではない――地獄の始まりである。

そんな主人公の“稀有に不幸な身の上”に落涙を禁じ得ないが、やがて気付く――平和な時代を生きる私たちが想像する“終戦を待ちわびる大衆”とは、虚像では無いのか、と。当時“戦時下”と言う極めて特殊な境遇を生きる人々の大多数にとっても、敗戦はやはり“地獄の始まり”と映ったのではないか、と。

『この国の空』の実に特徴的な終幕は、観る者に様々な思索効果を齎すであろう。
そして、畳み掛けるように、茨木のりこの詩である。久しぶりに、真に涙する終幕劇を観た。
荒井晴彦監督が目指した“1950年代の普通のホームドラマ”は、極めて高い時代性と普遍性を併せもつ傑作として結実したのだ。

文 高橋アツシ

『この国の空』
©2015「この国の空」製作委員会 配給:ファントム・フィルム、KATSU-do
8月8日(土)より、テアトル新宿、丸の内TOEI、シネ・リーブル池袋ほか全国公開
公式サイト kuni-sora.com

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