21世紀 フィリピン 内なる負債『ローサは密告された』レビュー
フィリピンから、観逃すと必ずや後悔する今年屈指の1本が届いた。ブリランテ・メンドーサ監督(『キナタイ マニラ・アンダーグラウンド』『囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件』)最新作、『ローサは密告された』である。
45歳で長編デビューして以来、世界三大映画祭(カンヌ国際、ヴェネチア国際、ベルリン国際)全てのコンペティションにノミネートされたメンドーサ監督は、「第3黄金期」を支えるフィリピン映画界の至宝である。第69回カンヌ国際映画祭で主演女優賞(ジャクリン・ホセ)を受賞した『ローサは密告された』にメンドーサ監督が描き込めたのは、ドキュメンタリー・タッチなどと表現するのが躊躇われるほどの、“今のフィリピンの現実”である。
未だに高止まりする熱狂的な支持率を背景に、ロドリゴ・ドゥテルテ(フィリピン共和国第16代)大統領は、1986年「人民革命」で打倒されたフェルディナンド・マルコス元(第10代)大統領を思い起こさせる独裁政治への回帰を目指しているかのように見える。ドゥテルテ大統領が高い支持を獲得した要因の一つに麻薬撲滅政策が挙げられるが、就任わずか数ヶ月で数千人が殺害され大きな論争を巻き起こした。そんな「麻薬戦争」と呼ばれるに至る異常事態で、大人や、子供や、警察官は、如何様に日々を暮しているのだろうか。
『ローサは密告された』ストーリー:
フィリピンの首都マニラ、ローサ・レイエス(ジャクリン・ホセ)はスーパーマーケットで、大量の食品、日用品を買い込む。インフレが進むせいでスーパーは釣り銭が不足していて、レジ係は少額貨幣の代わりにキャンディを配る。折からのスコールに傘も差せないローサだが、少年がタクシーを拾うのを手伝ってくれる。人口密集地の大都市だが、スラム街に暮らす人々は皆顔見知りだ。
車は狭い路地までは入ってきてくれず、結局ずぶ濡れになったローサは、帰宅すると買ってきた品物を小分けし始める。先ほどの買い物は、彼女が営む「サリサリストア」の仕入れ業務だったのだ。長男ジャクソン(フェリックス・ロコ)、長女ラケル(アンディ・アイゲンマン)、次男カーウィン(ジョマリ・アンヘレス)、次女ジリアン(イナ・トゥアソン)と4人の子供を抱えての生活は、大変苦しい。夫であるネストール(フリオ・ディアス)は電気工だが、ほとんど失業中のような有り様だ。
ある夜、ローサのサリサリストアに、マニラ都市警の捜査員がやってくる。警官たちは、店を荒らしながら捜索を開始する。威圧的な口振りは、犯罪の証拠品の存在を確信しているかのようだ。やがて、捜査員は、白い粉末の入った薬包と顧客を記したノートを発見する。ネストールとローサは、店の売上だけでは生活できず、アイス(覚醒剤)の密売に手を出していたのだ。現行犯逮捕となった二人は、子供たちを残して連行されてしまう――。
『ローサは密告された』が指し示すものは、家族愛、道徳観、隣人愛、職業倫理……その全てが違う。全てを内包しているが、全ては単にテーマの一部に過ぎない。メンドーサ監督が110分を掛けて訴えるもの、それは、人間の尊厳である。現代社会の表現芸術において、特に映画という総合芸術において、ついぞ見出すことが難しくなってしまったテーマに他ならない。
観衆は、日常ですっかり擦り減らし、踏み躙り、汚れ棄ててしまった、人間が持つ尊厳を見る。ネストールの遣る瀬無さに、ジャクソンの憤怒に、カーウィンの自己犠牲に、ラケルの懸命さに、ローサの涙に。
フィリピンの国民性を知る上で理解しておきたいキーワードの一つに、「ウタン・ナ・ロオブ(utang na loob:タガログ語)」がある。日本語に翻訳するなら、「内なる負債」だろうか。過去に他者から施された恩を、フィリピンの人々は「utang=負債」と呼ぶのだ。そして、彼らは一生を掛けて、内なる負債を返し続けるという。そんな恩を忘れた者は、「ワラン・ヒヤ(walang hiya)」と呼ばれることになる。「恥知らず」という意味で、フィリピン人にとっては最大級の侮蔑だそうだ。
ラスト、ローサは裏路地の人々を見詰め、涙を流す。何を見、何を感じたのか、それは分からない。子供たちへの想いか、犯した罪への悔恨か、忘れた恩への羞恥か、社会への憤懣か……きっと、全てが正解だが、全てを綯い交ぜにしても足りないのだろう。汗涙に塗れ、血を吐いて、それでも飯を食む――生きることは、苦行に他ならない。しかし、それでも尚且つ、人間には忘れては、捨ててはいけない物があるのだ。
今作は、東南アジアの大都会の隅に生きる人々の現在を具(つぶさ)に描き出したリアリティ溢れる物語であるが、そこには何故かある種のノスタルジーを感じる。
廻ればマカティの金融ビルいと高けれど、スコール溜まりに燈火うつるスラムの騒ぎも手に取る如く、明けくれなしのトライシクルの行来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、マニラと名は旧くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申き――
現代の、しかも遠く離れたフィリピンの、タクシーも入ることが出来ない袋小路に在ったのは、紛れもない「樋口一葉の世界」だったのだ。
文:高橋アツシ
『ローサは密告された』
7月29日(土)より、シアター・イメージフォーラムほかにて全国順次ロードショー!
配給:ビターズ・エンド ©Sari-Sari Store 2016