気仙魂、生の跡『息の跡』レビュー
2012年の企画上映【桃まつり】で観た『the place named』(2012年/36分)という短編映画が、未だに心を捉えて離さない。
『the place named』はソーントン・ワイルダー作の戯曲『わが町』を材に採った作品で、『わが町』をモチーフにしたと思しき少女の日常と、『わが町』の第3幕を稽古する劇団員たちの練習風景が交互に描かれる。それぞれのパートは観客を嘲笑うかのように関連性と隔離性との狭間をひらひらと揺蕩い、その上どちらのパートに属するのか判らない意味深なカット・インが度々挿入され観る者の脊髄反射をも痺れさせる。ドラマ、ドキュメンタリー、コンテンポラリー……ジャンル分けを、レッテル貼りを試みる行為が不毛に思える唯一無二の絶大なる存在感を放つ孤高の作品を前にして、筆者は立ち竦むより他なかった。今でも網膜の裏に、あの赤い発光体の煌めきが浮かんでは消える。
そんな短編映画を生み出した映像作家の名前を忘れまいと、必死に脳髄に刻み込んだ――小森はるか、と。
名古屋での【桃まつり2012 すき】上映館は、名古屋シネマテーク(名古屋市 千種区)であったが、小森監督とお会いすることが出来ず、本当に残念に思った。しかし、彼女のことが気になり情報を集めてみると、来られないのも納得であった。小森はるか監督は、東日本大震災の被災地を度々訪問し、2012年4月には盟友である画家・瀬尾夏美と共に岩手県気仙郡住田町へ移り住んでいたのだ。
この情報は、時が経つと共に筆者を悩ませるものとなった。震災という圧倒的な事象が如何に表現者に影響を及ぼすのか、次第に日本映画界でも見えてきたのだ。
小サイトでも過去に紹介した『ヒミズ』(監督:園子温/2011年/129分)『先祖になる』(監督:池谷薫/2012年/118分)『あいときぼうのまち』(監督:菅乃廣/2013年/126分)『大地を受け継ぐ』(監督:井上淳一/2015年/86分)のように、また『トーキョードリフター』(監督:松江哲明/2011年/72分)『正しく生きる』(監督:福岡芳穂/2013年/108分)のように、震災を扱った作品で傑作と呼べる映画はある。しかし、お世辞にも出来が良いとは言えない作品が多いのも現実だ。
小森監督の作品に震災が与える影響は、良くも悪くも想像できなかった。
なので、久しぶりに小森はるか監督が撮った映像を観た時、安堵するどころか快哉を叫ぶ気持ちを抑え切れなかった。震災、復興というモチーフに真っ正面から取り組んだ『波のした、土のうえ』(監督:小森はるか+瀬尾夏美/2014年/68分)という作品で、映像作家・小森はるかが持つサムシング・エルスに溢れた良作だったのだ。この作品もまた、ドキュメンタリー映画と括ってしまうのが躊躇われる作家性が輝いている。全編に亘り流れる被写体自身の音声は、時に映像に寄り添い、時には反目する。その淡々とした声は、実況のようでもあり、心情の吐露のようでもある。
そもそも『波のした、土のうえ』とは瀬尾夏美とのコラボレーション展示の一部なので、本来は『【波のした、土のうえ】展の映像パート』と表現するのが相応しいのかも知れない。
2月18日(土)より、小森はるか監督の最新作にして劇場長編デビュー作『息の跡』(2016年/93分)が公開される。岩手県陸前高田市でたね屋(種苗店)を営む佐藤貞一さんを追った、ドキュメンタリー映画である。
佐藤さんは、凄い人だ。東日本大震災の津波により失った住居兼店舗の跡地に自力でプレハブ小屋を建て、ビニールハウスを手作りし、缶詰の缶で掘った井戸に手汲みポンプを設置する。そして、借りた土地を畑に、山から取ってきた腐葉土、鶏糞、生石灰で農耕土を作り、自ら苗を育てる。震災で亡くなった方々の魂がそうさせたのだと言うが、普通の人間に出来ることではない。
佐藤さんは、賢い人だ。独学で英語を習得し、被災体験を英文で書き上げ、自費出版を始める。その上、書き加えたいことがあれば、その度に版を重ねる。更には、中国語版、スペイン語版にも手を広げる。佐藤さんは自分のことを「ごく普通の、たね屋」だと言うが、賢者が経営する店舗などそうそう存在しない。
佐藤さんは、SNSでの発信も欠かさない。世界で一番津波被害の多い三陸では、被災する度に過去の記録が消失した。現代はネットがあるおかげで、失われずに済む。だから、記録するのだ、と。さながら万能人(ウォモ・ウニヴェルサーレ)の如き佐藤さんであるが、その能力の発露の切っ掛けは震災かも知れないのを考えると、少々心が騒ぐことではある。
ここに列挙した事象の全ては、『息の跡』本編から知ることが出来る。一切の予備知識は、必要ない。
スクリーンの前の鑑賞者は、映像を見据え、音声を聞いたならば、映像作家の想いを追体験できる。小森はるかの、感慨を、感嘆を、驚嘆を。『息の跡』は、謂わば小森はるか監督がファインダー越しに見聴きした“素の実体験”なのだ。
だから、台詞めいた説明的な発言は無い。佐藤さんの(そして、時折聞こえてくる小森監督の)言葉は単なる会話の一部だが、実に饒舌に人となりを伝えてくれる。
同様に、解説的なテロップは使用されていない。自ら記述した英文や中国語を朗読する(素晴らしい発音で!)時、翻訳字幕が出るくらいである。
小森監督は佐藤さんと人柄が表れるほどの人間関係をよく築けたものだと感心しながら観ていくと、最後の最後にようやく合点が行く。銀幕の下部に並んだ作品中ただ一度のテロップが説明したものは、二人が積み重ねた月日の永さであった。
ただ一つ……ほんの短い場面ではあるものの、『息の跡』には本編だけでは消化できないシークエンスがある。唐突にはじまった佐藤さんの行動を、観客は呆気にとられて見守るしかない。スクリーンで揺れる天を高く衝いた塩化ビニールのパイプと同じく、観る者の頭も混乱する。
ネタバレになってしまうので詳細は叙述しないが、作品を観ていただければ一目瞭然と思う。『息の跡』で頭に疑問符が浮かんだまま終わるのは、このシーンだけだ。
気になった筆者は【佐藤たね屋】について調べ、件の場面の意味をようやく理解した。観者として傍観していただけのはずが、『息の跡』の一部に参加させられてしまったのだ。ほんの些細な行動であるが、この一歩のはるか先には、ニュース映像だけでは満足せず現場に飛び込んだ小森監督の背中が見えるはずだ。
この場面は、『息の跡』がルポルタージュからドキュメンタリーへと姿を変える、本編中もっとも重要なシーンと思った。
極寒の朝に白く描き出された呼気は、刹那を待たずに消えてしまうが、厳冬の空気を記憶しておくことは出来る。同様に、震災の記録を、復興に至る心象を、文字化して記録しておくことは出来る。そして、“KESEN DAMASHII”を世界に伝え、未来に残そうとする人間の営みを、映像化して共有することは出来る。
『息の跡』とは、“生(いき)の跡”……即ち、人間の生き様なのであろう。
小森はるか監督自身が佐藤さんを撮ったことにより自らの生き様について考えさせられたように、私たちも『息の跡』を観ることにより己の人生を再考する機会を得る。
『息の跡』公開に合わせて、前述した『the place named』『波のした、土のうえ』の上映も決まっている。
3作観ることをお薦めしたい。小森はるか監督の映像作家としての軌跡を――“生の跡”を、実感できるはずだ。
文:高橋アツシ
映画『息の跡』公式サイト
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