悪魔と奇蹟、風と引き潮 『ディーパンの闘い』レビュー
深く社会を知れば知るほど、広く世界を見れば見るほど、“正義”と言うものが色褪せて写る。世の中には幾つもの正しさがあり、互いに只ぶつかり合うのみで対立を引き起こすだけの存在である。
“コスモポリタン(世界市民)”への道程は、遥か長く果てしない。
スリランカ――正確には、スリランカ民主社会主義共和国――の国名は、シンハラ語で“聖なるランカー島”に由来すると言う。シンハラ語とはスリランカ総人口の7割を占めるシンハラ人の言語で、シンハラとは“ライオンの子孫”の意味だとか。
シンハラ語を公用語とするスリランカだが、実はタミル語と言うもう一つの公用語を持つ。タミル語は南インドを主な居住地とするタミル人の言語であり、ボリウッド作品でもしばしば使われるので、日本の映画ファンにも聞き馴染みのある言葉と言える。
耳にはタミル語の覚えがあったとしても、独立国家“タミル・イーラム”を建国しスリランカから分離・独立を目指したテロ組織があったことを知る日本人は少ないであろう。その組織は、ライオンの子孫を名乗るシンハラ人に対抗し、【タミル・イーラム解放のトラ(別名:タミル・タイガー、略称:LTTE)】と名乗った。
ジャック・オディアール監督最新作にして2015年カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作『ディーパンの闘い』は、【タミル・イーラム解放のトラ】の闘士が主人公の物語である。
シバダーサン(アントニーターサン・ジェスターサン)は、【タミル・イーラム解放のトラ】の兵士としてスリランカ内戦を戦う。海外の同胞に名が知れるほどの歴戦の闘士だが、家族を喪い、戦いから身を退く決意をする。
内戦を避け従姉妹が暮らすイギリスに脱出することを強く望む女(カレアスワリ・スリニバサン)が、市場を忙しなく駆け回る。海外渡航に有利な様に偽りの家族を探す彼女は、母を亡くした少女(カラウタヤニ・ヴィナシタンビ)を見付ける。
3人は斡旋所で、半年前に命を落としたと言う親子――父・ディーパン、母・ヤリニ、娘・イラヤル――の“身分”を手に入れ、外国へ逃げ延びる。自由と平等と博愛の国、フランスへ。
ディーパンを演じるアントニーターサン・ジェスターサンは、十代の頃【タミル・タイガー】の少年兵で、海外へ逃亡した後は様々な職業を転々とし現在はフランスで文筆業を生業としている。ヤリニ役のカレアスワリ・スリニバサンは演劇の経験があるものの、映画初出演。イラヤルに扮するカラウタヤニ・ヴィナシタンビに至っては、オーディションで選ばれた全くの演技初心者だ。スリニバサンを除いて素人である3人を主役に配したキャスティングは物の見事に功を奏し、偽りの関係から“家族”と言う絆を結ぼうと足掻く一家の苦悩が、リアルで時にユーモラスに生々しく銀幕に息衝いている。
ジャック・オディアール監督は、フレンチ・フィルム・ノワールの正統継承者である。『君と歩く世界』(2012年)は犯罪映画でこそなかったが……敢えて言おう、これも“ノワール作品”であると。そんなオディアール監督渾身の最新作『ディーパンの闘い』は、アメリカ、フランス、香港と世界を席捲してきた“フィルム・ノワール”と言うジャンルに金字塔を打ち建てる、新たな世界基準となった。
『真夜中のピアニスト』(2005年)『預言者』(2009年)でもそうだったが、オディアール監督の映画はいつも断片的な印象を与える。説明が不足していると言うよりは、場面を、瞬間を、刹那を、大切に、丁寧に、丹念に描く……描ききると言う拘りが強く見られる。星 新一の読者が好んで作品の“行間”を読むように、オディアール監督の観者は好んで映画の“コマ間”を観るのだ。
ディーパンの行動は、時に読めない。シーン間で明らかに意図的な省略が施してある箇所などは、特に突拍子が無い。まるで、野獣のようだ。そう、ディーパンは虎――“解放のトラ”の一員だった……否、虎を目指したが、成りきれなかったのだ。では、彼は何物であるのか?それは、映画本編で仄めかされる。密林で息を潜めるディーパンに、ある野生動物の姿が度々オーバーラップされる。
『ディーパンの闘い』は、観終わってスカッとする類の映画ではない。破壊衝動を満たす意味で或る種のカタルシスが無いとは言えない(この内容をエンターテインメントの領域に引き上げてしまうオディアール監督の豪腕には、驚かされる!)が、手放しで心を軽くしてくれる作品ではない。映写機の幻灯が消え再び客席に灯りが点る頃、観る者の両肩にはずっしりと重荷が圧し掛かるような映画である。むしろ、観客は胸に暗い瘧りを抱いて席を立って欲しいと思う。
それが、遥か長く果てしない“世界市民”への一歩を踏み出す、産みの苦しみであって欲しいと思う。
文 高橋アツシ
『ディーパンの闘い』
2月12日(金)TOHOシネマズ シャンテ・伏見ミリオン座ほか全国ロードショー
© 2015 – WHY NOT PRODUCTIONS – PAGE 114 – FRANCE 2 CINEMA