惑星単位の死生観『さようなら』レビュー


sayounara
絵画は目を、音楽は耳を、それぞれ支配する芸術である。だが、優れた作品は視覚、聴覚のみに訴えかけるに留まらない。アンドリュー・ワイエスの絵画から、触覚を刺激されることがある。窓から吹き込んでくる風を感じるのだ。アントニオ・ヴィヴァルディの音楽から、嗅覚が刺激されることがある。力強い生命の芳香が匂いたつのだ。
では、映画はどうだろうか?映画は、視覚も聴覚も支配する総合芸術である。だが、映画が支配する最も大きなものは、感覚よりも、時間である。映画は、鑑賞者に時間的拘束を強いる芸術なのだ。
だから、映画は時間経過の表現に特別の拘りを見せる。『ライフ・イズ・ビューティフル』(監督:ロベルト・ベニーニ/1997年)、『ノッティングヒルの恋人』(監督:ロジャー・ミッシェル/1999年)、『おおかみこどもの雨と雪』(監督:細田 守/2012年)のようにワンカットで時間経過を表現する作品もあれば、『フラッシュバックメモリーズ3D』(監督:松江哲明/2012年)のように一つの画面に異なる時間軸が並在する作品もある。

『歓待』(2010年)で凄まじいコメディ・センスを見せつけ『ほとりの朔子』(2013年)で青春バカンス映画と言う唯一無二の世界を作り上げた深田晃司監督の最新作『さようなら』は、まさに時間経過の新たな表現に挑んだ傑作である。スクリーンに露出のニュアンスによる独特の陰影の変化を観る時、登場人物が過ごした月日を、物語が移ろった年月を、人類が足掻いた星霜を体感することが出来る。

放射能汚染により“棄国”宣言された未来の日本、不治の病に侵されたターニャ(ブライアリー・ロング)は、アンドロイドのレオナ(ジェミノイドF)と暮らしている。友人・佐野(村田牧子)や恋人・敏志(新井浩文)以外には訪問客もないターニャの為に、レオナは詩を朗読する。避難番号が離れ受入国が変わってしまうのを防ぐため入籍するカップル(村上虹郎・木引優子)によると、避難許可の抽選には優先順位があるらしい。残された人々は、優先順位の低い者と言うことになる。死の影を身近に感じる人間と、死を知らないアンドロイドは、ゆっくりと死に往く世界で何を見るのか――。

『さようなら』は、劇団青年団主宰・平田オリザとロボット研究の第一人者・石黒 浩教授が進めるロボット演劇プロジェクト【アンドロイド演劇『さようなら』】を原作としている。劇中でアンドロイド・レオナを演じるジェミノイドFは大阪大学で開発された本物のアンドロイドであり、これまで人間の俳優やCGで表現されてきたアンドロイドを“本物”ジェミノイドFが演じることにより、今までに無い新たな表現の領域に足を踏み入れた。
レオナは、常にターニャを気遣っている。ターニャの求めに応じ詩を詠唱するが、谷川俊太郎、アルチュール・ランボオ、若山牧水、カール・ブッセと多岐に渡る。その上、英語も仏語も使いこなし、ターニャが習得していない独語の詩は上田 敏の訳で詠む肌理細やかさを見せる。
劇中、会話の返答について問われたレオナは、「過去の相手の反応を記憶し、学習しているだけ」だと申し訳なさそうな態度を見せる。考えてみれば当然なのだが、人間が他者に対して行う気遣いと全く同じプロセスを踏んでいることに驚愕する。
自身の“自己(パーソナリティ)”を与えてくれた者がいなくなった時、アンドロイドに残る経験値は“自我(アイデンティティ)”と言えるのではないか。そして、それは、“命”と呼べるのではあるまいか。

スクリーンに“アンドリュー・ワイエスの窓辺”を観ている気になっていた観者は、“現代の河鍋暁斎”を味わうことになる。そして、死を知らないはずのアンドロイドだからこそ辿り着けた、“惑星単位の死生観”を体感することになる。

文 高橋アツシ

『さようなら』
11月21日(土)新宿武蔵野館他全国ロードショー!
配給宣伝:ファントム・フィルム
©2015 「さようなら」製作委員

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