60万回から繋がるトライのリレー『60万回のトライ』鑑賞記
60万回から繋がるトライのリレー --『60万回のトライ』鑑賞記--
『60万回のトライ』は、不可思議な映画だ。
朝鮮学校ラグビー部のドキュメンタリー映像を観ていたはずが、日本に於ける“在日朝鮮人”・“在日韓国人”について考えを巡らせている自分に気付く。ところが作品に浸かっていると眉間に寄っていた皺が解け、いつの間にやら涙で頬を濡らす自分に気付く。
2014年4月12日、シネマスコーレは話題のドキュメンタリー作品『60万回のトライ』の観客でシートが埋まった。上映後誰も席を立たないのは、舞台挨拶があるからだ。こんなにも心を揺さぶられる作品を撮った監督の声を聞きたいがため、記者も座席に深く身を沈めなおした。
朴 思柔(ぱく・さゆ)「アンニョンハシムニカ、お忙しいところ来てくださって、本当にありがとうございます。朴思柔です。“お湯じゃなくて白湯(さゆ)”と覚えてください。「これ言ったら、めちゃウケるでぇ」と、大阪のアボジ(お父さん)が教えてくれました(笑)。こちらは、共同監督です」
朴 敦史(ぱく・とんさ)「みなさん、アンニョンハシムニカ、こんにちは。朴敦史と申します。大阪では「のび太くん」と呼ばれ、東京では「ハリー・ポッター」とか「コナン」と呼ばれることもあります(場内笑)。在日朝鮮人の三世で、日本の学校出身です。本日はご鑑賞いただいて、どうもありがとうございます」
--この作品を創る経緯を教えてください(司会進行:シネマスコーレ木全純治支配人)
思柔「「これ、下心あったんでしょ?」とか「何の目的があったの?」とか言う質問を、千人の中で一人ぐらいは言われるんですけど(笑)…実はご覧の通り何の目的も無く、本当に切って繋いだだけ…子供たちの有りのままの姿を見せたいだけだったんですね。大阪朝高のラグビー部の子供たちを見て、「なんで同じ民族なのに、こんなに違うの?」「なんで皆こんなに凛として清々しくて堂々として…こんな素敵な生き方してるの?」と凄く心に響いて…自分だけが見るのは勿体無いと思って撮り始めたんです。その頃は、身体が一番辛い時で(記者注:当時、朴思柔監督は癌の切除手術を終えたばかりだった)…カメラを持つのもしんどかった時期なんですけれど、自分がいずれ亡くなったとしても誰かが編集してくれるだろうとの思いだけで、カメラを回しました。その“誰か”が、(京都市宇治市)ウトロで出会ったこの朴敦史と言う人です。500本に至る60分のテープを1、2ヶ月で編集するのはとても大変だったんですけど、なんで無理をしてでも完成させたかと言えば、オモニ(お母さん)達の笑顔が早く見たかったからです」
--お二人の出会いを教えてください
敦史「町の記録を残したいなと思って、日本人の支援者の方などとウトロに行ったのがきっかけで、そこで療養中の思柔監督と出会ったんです。それから1、2年経った頃に、「大阪朝高のラグビー部の取材を始めるから一緒に来ないか?」と誘われたんです。一回断ったんですが…」
思柔「「思柔さん、僕はただの本屋さんだから」って…彼は本が大好きで本屋さんに勤めてたんです。でも、彼が小さなホームビデオを買って初めて撮ったウトロの映像を見たんです。誰もが「この人に託さないと!」思うんじゃないか…そんな映像だったんです」
敦史「…まあ結局、負けて(笑)」
--大阪朝高ラグビー部と監督の出会いを教えてください
思柔「2007年の『グラウンド裁判(記者注:東大阪市と争われた学校用地の問題)』の時、取材をしたんです。ドロドロのグラウンドで子供たち一生懸命走ってて、それが凄く楽しそうに見えたんです…今時、韓国でもあんなドロドロなグラウンド無いだろうにと、物凄くショックだったんですけど…子供たち練習が終わったら、一人ひとり丁寧にグラウンドにお辞儀をするんですよ。その時、惹かれました」
--カメラを回し始めて、一本の映画になるなと思い始めたのはいつ頃でしたか?
思柔「「花園(ラグビー場:全国高校ラグビー大会会場)へ来なさい!2007年のあの子達が、花園に出る!」と連絡を頂いた時、私はまだ治療中で…病院から許可をもらえなかったんで、仕方なく逃げて(笑)…カメラを持って駆けつけたんです。日本語の応援の方が大きいはずなのに、何故か自分の母国語であるウリマル(『私たちの言葉』の意=朝鮮語)が耳に大きく入ってきて…「カラ(=行け) カラ カラ カラ カラ 朝高!」の声だけ聞こえて。結果は、ベスト4だったんです。競争社会で育った私としては、ガッカリだったんですが…当の本人たちが、「チャレッタ(よく頑張った)ー!」って大きな声援を素直に受け取って堂々と満面の笑顔で挨拶するのを見て、ソル…鳥肌が立って。その時、自分だけ見るのは勿体無い…世界に、特に彼らの故郷である韓国に伝えたいと思って、撮影を決めました」
--その映像は、韓国に送ったんですか?
思柔「最初は「1位ならともかく、ベスト4ではニュースにならんな」って返事だったんですが、私が感じた子供たちの誇らしい姿をそのまま編集して韓国に送ったところ「これ以上いいニュースはない」と10分弱の生放送まで組んでくれました」
少年たちは、ラグビーを通して成長し、同胞社会を通して人生を学ぶ。日本国内の隔たりも何もない隣町で営まれるのは、日本人の生活とは違う日常だ。生まれも育ちも韓国と言う朴思柔監督だからこそ気付けた目線が、この作品には溢れている。
思柔「実は朝鮮学校の子供たちは色んな強みがあるんです。その一つが、“人間力”と言いますか…彼らは、人間が大好きです。私のように韓国で生まれた子たちは、人が苦手なところがあって…人前では頑張っても帰ったら疲れてしまっていたり、法事とかで親戚が家に集まるのも韓国の子は嫌がる傾向が強いんですけど…朝鮮学校は同胞のコミュニティの真ん中で、自分の家族だけでなく皆を愛する土壌なんです。この映画ではラグビー部員のアボジが観客席から試合を撮った映像を使わせてもらってるんですが、何故使えるかと言うと、自分の子供だけでなく試合を全部…他の子供たちも撮ってるからなんですね。もし韓国のオモニ・アボジだったら、自分の子ばっかり撮ってて、使えなかったはずなんですけど(笑)」
--この映画は5月に韓国の全州(チョンジュ)国際映画祭に出品します。日本での公開も、まだまだ控えています。皆さんにアピールをお願いします
思柔「今年で15回目になる全州と言う非常に信頼できる映画祭にノミネートされました。その評価が有り得ないくらい高いんですね。その理由が…何と書いてたっけ?(場内爆笑)」
敦史「韓国の高名な映画批評家の方が、「フィクション以上にドラマティックな物語である。それだけでなく、在日朝鮮人のコミュニティの有り様が凄く良く伝わってくる」と、書いていただきました」
思柔「反響が大きいのも、実は私たちが(技術的に)上手かったからでは決して無く、本当に有りのままの在日同胞の日常生活が入っているからだと思います。「なんで日常生活を写してると言いながら、無償化(記者注:=高校無償化の朝鮮学校適用除外)とか補助金(記者注:大阪府が朝鮮学校への補助金を停止した問題)の話とか入ってるの?」って質問があったんですね…1万人で一人くらい(場内笑)。実は、こんな訳があったんです。補助金の場面を排除しろとの声があると聞いたラグビー部の子から「ルナ(お姉さん)、どうするつもり?」と質問があったので、「私たちの映画じゃなくて貴方たちの映画なんだから、貴方たちが決めて」と言うと、「ならば、絶対使って欲しい。それが、僕らの日常生活だったもん」返ってきたのは、そんな答えでした」
『60万回のトライ』と言うタイトルに込められたメッセージが劇中で示される頃、銀幕の中は佳境を迎える。
キャプテン金 寛泰(きむ・がんて)くんがラグビーの真髄を言葉にして見せ、エース権 裕人(こん・ゆいん)くんがその言葉を体現して見せる。彼らの“人間力”は、実にしなやかで、実に揺るぎない。
思柔「呉 英吉(お・よんぎる)監督が「スポーツは社会を変える」と仰ったんですけれど、もし映画にも社会を変える何らかの力があるとしたら、今1歩を踏み出したことで…1回トライしたことで…この日本と言う素敵な社会が、もっと皆が伸び伸び進化するもっともっと素敵な社会に変えていけるように、60万回…60万1回2回トライして行きたいと思います」
大阪朝高フィフティーンが60万回目のトライを決め、朴思柔・朴敦史両監督が60万1回目のトライを決めた。 60万2回目のトライを決めるべきは、我々観客なのかも知れない。
取材:高橋アツシ
『60万回のトライ』
監督:朴思柔(ぱく・さゆ) 共同監督:朴敦史(ぱく・とんさ)
プロデューサー:岡本有佳 永田浩三 製作:コマプレス
公式サイト http://www.komapress.net/
2010年4月、春の選抜大会決勝。
最強の王者・東福岡高校を雨の中で追いつめる。同点で迎えたロスタイム、あと一歩で両校優勝、初優勝のはずが、大阪朝高はあえて闘い抜くことを選び、結果、敗れた。そこから再び「全国制覇」の夢へ。主将・寛泰(がんて)の大けが。チームメイトたちは猛練習を積み重ねる。
寛泰たちの高校生活は、高校授業料「無償化」からの排除、地方自治体の補助金停止などの現実に直面させられる日々でもあった。2010年12月、復帰した寛泰を先頭に全国大会「花園」に臨むが、初戦でエース裕人(ゆいん)が脳しんとうで退場。夢への挑戦にまたしても、苦難が待ち受けていた……