TOKYOエンタメさんぽVol.2 『水曜日のエミリア』


「それでも、人生は愛おしい。」

ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞に輝いた『ブラック・スワン』と同じく2011年に日本で公開され、ナタリーが製作総指揮を務めたのが、今回紹介する『水曜日のエミリア』だ。『ブラック・スワン』が現実と虚構が混在する世界を表現しているのに対し、本作はどんな状況でも逃れられない現実だけを突きつける――。だからこそ、等身大のエミリアが経験する“再生”のストーリーを自分のことのように追いたくなるのだ。

エミリアは不器用な女性だ。悲しみのあまり、無邪気なウィリアムがすることにも寛容になれない。そればかりか攻撃的な振る舞いは彼女と関わる周囲の人にまで及ぶ。「ユダヤの教えでは産まれて1週間経っていない赤ちゃんは人間じゃない」とウィリアムに吹き込んだ前妻に怒りをあらわにし、家族を傷つけてきた父親と、そんな父親を受け入れてしまう母親にも辛くあたる。「君は愛する者に厳しすぎる」と夫に言われてもなお、エミリアは変わろうとしない。頑なに悲しみの中にい続けようとするのだ。

エミリアが囚われているもの――。それは罪悪感だ。実は、エミリアには誰にも言えない秘密があり、その罪悪感が彼女を身動きの取れない状態にしている。罪悪感というのは、本来そっとしておけば、時とともに忘れていくものだ。しかし、エミリアのように囚われてしまうと、忘れるどころか、想いは次第に強化され、自分の一部として根付いてしまう。辛いことのはずなのに毎日思い出さないと不安なのだ。“痛みを伴ってでも寄り添っていたい”感覚というのは、どこか歪んでいるのかもしれない。しかし、愛する人を失った経験が一度でもある人なら分かるはずだ。悲しみのどん底にいた自分が、自然と笑えていることや、その人を思い出すことが日に日に少なくなっていることに気づく。悲しみが癒えることが後ろめたい、そんな感覚が……。

その渦中にいると、愛する者の言葉さえ届かない。エミリアが、同じく愛娘を失った夫とも、妹を失ったウィリアムとも悲しみを共有できないのはなぜか。それは、悲しみは喜びとは違うからだ。喜びの捉え方は一つでも、悲しみの捉え方は何通りもある。誰かも同じ経験をしていることが救いになる人もいれば、自分だけが特別ではないということに追い詰められる人もいる。だからこそ、悲しみを人と共有することは容易ではない。それがたとえ愛する者同士であっても、だ。

物語の終盤で、意外な人物が罪悪感に囚われたエミリアを救うことになる。自分に対して愛情や同情といった“情”を感じていない者の言葉だから心に届いたのだ。罪悪感から解放されたエミリアは、壊してしまった関係と向き合いながら、自分らしく人生を歩み始める。

この映画の本質は、エミリアの抱える秘密に対して、“何が真実だったか?”ということではない。大事なのは、“自分が何を真実として捉え、信じていくか?”ということだ。罪悪感を抱いた時、一生罪悪感にさいなまれながら生きるのも、「これで良かったのだ」と気持ちを切り替えて生きるのも、本人の自由だ。しかし、前向きに生きていくには、どこかで罪悪感を手放さなければならない。それは、自分の感情を一つ一つ整理して、自分なりに納得して前に進むということだ。特に、エミリアのように繊細で複雑なタイプの人間には、他人の経験は参考にならない。その代わり、自分をよく知ることが大きなヒントになる。自分が何に悲しみ、何に怒り、何に喜ぶ人間なのか。そして、誰を愛し、誰に愛されているのか。それを把握することで、悲しみや罪悪感を乗り越えたあと、“どんな自分でありたいか?”、そして、“どんな人生を送りたいか?”という理想が見える。それは、人生を諦めそうになった時、未来へと続くメインロードを照らしてくれる光になる。

生きているかぎり、罪悪感を伴う出来事は訪れる。これまでが大丈夫だったからといって、今後も乗り越えられるという保証はない。しかし、一度、罪悪感の手放し方を知ると、作り終えた折り紙のように、また最初からやり直したとしても、しっかりとついた折り目に沿って再び完成させることができる。そのため必要なのは、一度だけでいいから自分の力で最後まで折ること。その経験があれば、何度でも“再生”はできるのだ。

ライター 須藤妙子

『水曜日のエミリア』 キャスト:ナタリー・ポートマン、リサ・クドロー、監督:ドン・ルース
【ストーリー】
永遠の愛を誓い合う結婚。女性なら誰しも、手に入れたいと願うのは当然のこと。新人弁護士のエミリアも、ごく普通の幸せを求めただけだった。しかし彼女の場合、最初のボタンを掛け違った。既婚者の上司に恋をしてしまったのだ……。

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