Ain’t they Sweet?『きみはいい子』レビュー


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――Ain’t they Sweet?―― 『きみはいい子』レビュー

色とりどりのランドセルが綺麗に並ぶ教室で、その持ち主の子供たちの表情は対照的に暗く澱んでいる。だが、その誰よりも沈んだ顔をしているのは、教壇に立つ岡野 匡(高良健吾)だ。
指導方法を保護者に口出され思い悩む新米教師・岡野は、家族や恋人・美咲(黒川芽以)におざなりな態度で接し、小学校の近隣に住む佐々木あきこ(喜多道枝)や先輩教師・正田(小林なるみ)、大宮(高橋和也)の激励も彼の心には届かない。

マンションの一室で、甲斐甲斐しく娘の着替えの世話を焼く母親がいる。だが、その声は刺々しく、娘・あやね(三宅希空)の腕には薄っすらと内出血が見て取れる。眉間に皺を寄せる母・水木雅美(尾野真千子)は、左手を過剰なまでに隠す。
公園でおしゃべりに興じる雅美だが、あやねのことを気に掛けるあまり打ち解けられない。あやねのことを「べっぴんさん」と呼んでくれたママ友のひとり大宮陽子(池脇千鶴)の言葉が、頭から離れない。

子供たちは、いつだって大人を困らせる。
お漏らししてしまう小野さん、騒ぎを扇動する大熊さん、清水さんを虐める星さん――問題児揃いの岡野のクラスは、学級崩壊寸前だ。
あやねちゃんは飲み物を引っくり返すし、ヒカルくんは走り回って車に轢かれそうになる――名は体を表すような陽気な陽子さんでも、「子供を放り投げたくなる時がある」と言う。
だけど、そんなことはない。子供たちは皆、いい子なんだから――と、作り手の心情を先読みしたくなるのであるが、『きみはいい子』はそんな作品ではない。
子供たちが“いい子”なのは当然のこと、謂わば前提だ。「きみはいい子」と言われてるのは、子供たちと、かつて子供だった人たちである。つまりは、劇中の登場人物全員、そして、作品を観ている全ての人々に向けたメッセージなのだ。
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『そこのみにて光輝く』(2013年/120分)で絶望と希望にまみれた人の世を高らかに謳いあげた監督・呉 美保、脚本・高田 亮の名コンビが中脇初枝の児童文学を原作に構築したのは、私たちが這いずり回る現実と地続きの世界であった。
『きみはいい子』の登場人物たちが住む街には、様々な人が暮らしている。
認知症が進行し図らずも万引きをしてしまったあきこを諫めた櫻井和美(富田靖子)は、自閉症の息子・弘也(加部亜門)と彼女の関係を知らない。
義父(松嶋亮太)と暮らす神田雄太(浅川 蓮)は、通っている小学校の校庭にひとり残り、ある物を見詰めている。
同じ街に暮らす人々は、時に擦れ違い、時に触れ合う。点と点が一本の線になる映画的な展開を期待してしまうが、『きみはいい子』では全ての登場人物が相関していない。
それどころか、設定上は繋がっているにも係わらず、その関係が劇中では明らかにならないキャラさえ存在する。そう、私たち観客が町内の人々全てと関わらないのと同じように。
人々は、明日に期待し、今日に絶望し、砂を噛むような毎日を送る。そう、私たちと同じように。

岡野が出した宿題に、子供たちはどう応えるのか。
虐待を続ける親の手が、我が子を撫でる時は来るのか。

実家に出戻った薫(内田 慈)は、言う。「あたしがあの子に優しくすれば、あの子も他人に優しくしてくれるの。だから、子供を可愛がれば、世界が平和になるわけ」

リアルを貫いてきた物語が、終盤になって一陣のファンタジーを見せる。
フラワーシャワーは、あまねく降り注ぐ――スクリーンの中にいる人々だけでなく、銀幕の外にいる観客にも。
『きみはいい子』は、限りなく冷酷で、馬鹿馬鹿しいほど優しい映画である。そう、私たちと同じように。

文 高橋アツシ

『きみはいい子』
キャスト:高良健吾 尾野真千子 池脇千鶴 高橋和也 喜多道枝 黒川芽以 内田慈 松嶋亮太 加部亜門 富田靖子 監督:呉美保 原作:中脇初枝「きみはいい子」(ポプラ社刊)
配給・製作プロダクション:アークエンタテインメント ©2015「きみはいい子」製作委員会
公式サイト
6月27日(土)よりテアトル新宿ほか全国ロードショー

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