聴け、暁の鐘の音『抱擁』レビュー


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――聴け、暁の鐘の音―― 『抱擁』レビュー

「香津美、私を撃ち殺して」
そんな衝撃的な言葉で幕を開ける『抱擁』は、20年間で200本以上のTVドキュメンタリーを撮りつづけてきたフリーの映像作家・坂口香津美監督の最新作である。坂口氏は、5本目の長編作品であるドキュメンタリー映画『抱擁』で、監督のみならず撮影、編集、そして出演もこなした。

今作で監督が被写体に選んだのは、坂口すちえ――作品中で傘寿を迎える、坂口監督の実母である。『抱擁』は、坂口監督がどうしても理解することの出来ない母・すちえの苦悩に迫るためカメラを向けた4年間を93分に凝縮した、まさに魂の慟哭の記録である。と言うのも、坂口すちえは鬱を発症した上にパニック障害に悩まされ、あろうことかアルツハイマー型認知症が進行しつつあるのだ。冒頭に引用した言葉は、精神安定剤すら抑えることが出来ない悲嘆に耐えかね、息子が構えるレンズに向かって発した老母の絶叫なのである。

神経症が母を苦しめるだけでなく、強烈なストレスがパニック発作を惹き起こす。坂口監督の父でありすちえの夫・坂口 言愈(「言愈」は、1文字)は、入院している。人工呼吸器が生命を維持している重篤の身で、脳梗塞で急変し会話どころか意思表示も出来ない。
母は、父にもっと優しくすればよかったと後悔ばかりを口にする。隣で寝ているのだから、言ってくれたならいつでも湿布を貼ったのに――。近くの店で売っているのだから、ズボン下くらい私が買いにいったのに――。愛し方が足りなかった――。夜中だと言うのに突如出歩き始めるすちえは、挙句にこんなことを言う。
「死ぬ覚悟が出来た」
「死ぬ方法はいくらでもある」
聞いている方は、堪らない……カメラの後ろに居る香津美氏も、スクリーンのこちら側に居る私たちも。堪りかねた坂口監督が、母に尋ねる。
「「寂しか」ちゅうのは、どう言うことじゃろうか?」
すちえは、言う。
「寂しかとは、寂しかとよ」
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そんな中、とうとう夫が――父が、逝く。薬鑵を火に掛けたまま、母は頭痛にのたうち回る。
葬儀のため上京した宮園マリ子は、姉・すちえを故郷の種子島に連れ戻すことを決意する。
「嬉しかや……あん時は生活できんやったからやあ」
坂口すちえ、38年ぶりの帰郷。
「行かざるを得んかったもんなあ」
空港に迎えに来た弟・寺田利則も、応える。
慣れない都会暮らしが、すちえの精神を磨り減らしたのであろうか。作品が進むに連れ、すちえが鬱になった明確な近因が示される。

生活が島に移ったところで、母の病状は改善されない。デパス、リーゼ……安定剤が手放せない。
「ぶったおれてしまいそうだ……どうしてなんだろう」
認知症は進み、引き算が出来なくなる。腰痛で入院するも夜中に突然パニックになり、這って帰宅した挙句、寝床で余りの痛みに香津美、マリ子を呼び続ける。坂口監督が……息子・香津美が求めた解決策は、種子島にも存在しない。
だが、島では沢山の人たちがすちえを囲んでいる。三人の妹弟、四人の義妹、二人の姪、62年ぶりに邂逅した幼馴染たち。
「ここじゃあ具合悪うしても、物を食べちゃ、人が逢うしゃ、笑ろうちゃ……な、そうすりゃ頭すっきりになったやろ?」
妹・マリ子は、そう言って豪快に笑い飛ばす。いつしかレンズの背後に居たはずの坂口香津美監督の存在感は消えうせ、恰かもカメラは部屋の調度品に、路傍の石ころに、人々を包む空気に成ってゆく。
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坂口監督が実母を撮りつづけた映像には、高齢化、地域格差、神経症、認知症、老老介護――現代社会が抱える様々な問題が、生々しく焼き付けられている。そして、解答めいたものも仄めかされている。だが、坂口香津美監督は、それを好しとしない――そう感じた。『抱擁』は飽くまで坂口すちえと言う被写体が辿った4年間を記録したものであり、問題解決のための模範解答では在り得ない――そんな真摯な作家性を感じた。更に、観客の心を優しく導く大沢充奈氏の音楽が坂口監督の世界観に見事に合致し、『抱擁』と言う作品のアイデンティティを強固なものとしている。

救いの無い結論を押し付けるよりも、正解の無い救済を求める方が、遥かに健全だ。
馬鈴薯を植える老女ふたりのシルエットが、作品中に登場したジャン=フランソワ・ミレーの名画と合致する時――晩鐘ならぬ“暁鐘”が聴こえた気がした――。

文 高橋アツシ

『抱擁』
キャスト 坂口すちえ、宮園マリ子、坂口 諭、坂口香津美
スタッフ 監督/撮影/編集 : 坂口香津美
©SUPERSAURUS 配給:株式会社スーパーサウルス
公式サイト https://www.facebook.com/walkingwithmymother
4月25日(土)よりシアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)にて公開。
6月13(土)よりシネ・ヌーヴォ(大阪)にて公開。 他、全国順次公開。

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