どっこい 生きてる “紙の花” 『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』鑑賞記


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どっこい 生きてる “紙の花” --『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』鑑賞記--

もしも私が死んだなら、棺の中に“紙の花(ブーゲンビリア)”の種を入れてください。
『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』の物語は、そんなモノローグで幕を開ける。

「ここ名古屋と言うのは、僕にとって特別な土地です。三重県の四日市から名古屋に転居して来たのが、小学校3年生の時。そして、高校時代までこの名古屋で青春時代を過ごしました。映画館に通うことを覚え、映画が好きになり、映画を自分の仕事にしたいと思うようになったのは、ここ名古屋からです。まずは真っ先に「名古屋ではウチでやる」と言ってくださったシネマスコーレさんに、何よりもこうして観に来てくださった観客の皆さんに、心から感謝したいと思います」
長田紀生監督は、舞台挨拶の壇上こう切り出した。

「皆さん、こんにちは。…誰か、わからないでしょう(笑)…40年経ったら、わかんないでしょう。出てましたよ…“タロー”ですよ(笑)!ちょっと僕、ハンデありますよね…23才、青春の最後の真っ盛りの頃ですから。“タロー”を演りました、磯村健治です。宜しくお願いします」出演・プロデューサーの磯村健治さんはそう言って笑ったが、まるで悪戯っ子のような笑顔は銀幕を躍動する“タロー”そのものであった。

2014年6月1日、シネマスコーレではこの日が『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』の封切2日目で、長田紀生監督・磯村健治氏は前日の公開初日から舞台挨拶に立っていた。二人にとって2度目の登壇であるが、この日も大勢の映画ファンで座席は埋まった。0601_2nagoya

長田 「『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』は、1975年1月から4月に掛けて全編ベトナムロケーションで撮影したものです。ベトナム戦争が終わったのが、1975年4月30日のサイゴン陥落…僕たちは直前までその土地で映画を作っていたんです。ですが、色んな経緯があって、お蔵の中に眠ってました。それが出てきたのは、2012年7月のことでした。この映画は、オール5を貰うような優等生な映画ではありません。あるいは、音楽だとか体育だとか一芸に優れていると言う映画でもありません。謂わば、劣等生のヤンチャ坊主です。しかし、僕たちが思ってた以上の生命力を持っていてくれた映画だと思います。映画の魅力の一つは俳優…役者です。川津裕介さん、タン・ランさん、そして磯村健治さん、皆んな最高の役者です。小手先の芝居なんかじゃない、本当にあの時、あの土地で、彼らが出来る精一杯のことを魂込めてやってくれたと思います。また、僕はこのキャメラも大好きです。椎塚彰と言うキャメラマンです…残念ながら、亡くなりました。この映画が彼の劇場用映画のデビュー作で、この後『南極物語』(1983年)とか『敦煌』(1988年)とか日本映画の大作を手掛けていきました。ある時会って「椎塚さん、大変な撮影ばっかりだね」って聞いたら、「いやあ、『ナンバーテン』の後だったら、何やったって軽いもんだよ!」って言ってました。そのくらい過酷な撮影でした」

パリ和平協定による停戦が合意されるも、戦闘は益々泥沼化の様相を見せるベトナム共和国(南ベトナム)。1975年2月、1年以上サイゴンに駐在する日本人商社マン・杉本(川津裕介)は、時折り響く砲弾の炸裂音もどこか遠くの出来事のように気ままに暮らしていた。しかし、現地職員の命を些細な事から奪ってしまったことから、彼の日常は一変する。家族の絆が強いサイゴン市民から容赦なく追い詰められ、現地の警察が信用できない杉本は国外脱出を決意する。だが、逃走を手引きしてくれるはずのブローカー・陳(ドァン・チャウ・マオ)には裏切られ、友人・太田(きくち英一)には協力を拒まれる。戦火の色濃い前線に向かっての逃避行に着いて来てくれるのは、情婦ラン(ファイ・タイ・タン・ラン)と混血児・タロー(磯村健治)だけだ。逃亡劇の果てに待ちうけるのは、希望か、絶望か。杉本よ……日本人よ、お前はどこへ行くのか!?

0601_3nagoya磯村 「実は私、これがデビューなんですよ。…デビューする、予定だったんです(笑)…叶わなかったんですよ。で、2年前に長田監督から電話を頂いたんですけれど…実は私は『ナンバーテン』のことは忘れてました…38年も経ってますから。私、映画の制作会社もやってるんですけれども、当時の経緯なんかも正直あんまり詳しくは知りませんし。でも、最初はピンと来なかったのが、長田さんの声を聞くうちに一気にフラッシュバックしまして。他のスタッフと一緒に観て、何だかいきなりあの時熱い思いで芝居も色々やったのが返ってきまして…何としてでも世に出したいと思ったんです。映画の配給って非常に難しいですから、今の世の中に受け入れてもらえるか全然わかりませんでしたけれど、とにかく編集だけやりましょうよ、と言うことで。取り敢えず作戦としては、外国から行く方が良いんじゃないかなと、ロッテルダム映画祭を皮切りに外国をずっと回ってきました。幸いなことに、外国では非常に受けがよろしいんですよ。“ベトナム”って言うのは、ある種エポック…20世紀最大のターニングポイントで、歴史の転換期にそこに居た事実は凄いことですから、グローバルな視点からも非常に凄い価値です。ただ、日本の今のシネコンとかでは受け入れてくれないだろうと言うのは、ちょっと予感がありました。この映画は今後少しずつ皆さんが口から口へ伝えていただいて…もう40年経ってますから、賞味期限ないんで(笑)そう言う風にやっていければなと思っております」

地位も名誉も安らぎも捨てた挙げ句に日本をも捨てた時、杉本には何が残るのか?
家族と暮らす夢を捨てて愛する男への献身を尽くすランは、最後に何を見るのか?
育ての親を裏切ってまで父親の故郷を目指すタローは、愛憎を抱え何を叫ぶのか?
フィルムセンターの倉庫と言う棺の中で眠っていた“ブーゲンビリアの種”は、雄々しく根を張っていたのだ。そして世紀が変わった今、見事に芽を吹いたのだ。

長田 「僕は、今の日本映画は停滞してると思ってます。外国でも日本でも、日本映画を“半径5m映画”と評しています。それはそれで良いんですが、時代とか状況とかとまともに向き合って何かを考えようとする映画が余りにも無くなってしまうのは、映画を作る人間としてとても寂しく思うんです。そうなった要因は色々ありますが、一つはテレビ局が映画会社に代わって映画を作ってることです。今の日本映画からは、毒が無くなっている…時代だとか、政治だとか、国家だとかと言うものに対して。僕は監督として凄く迷いました…この映画が今の観客の皆さんにとって面白いのか、何か物を考える・感じる契機になるだろうか、と。そんなとき、磯村を初めとする若い人は、“同時代性”と言ってくれたんです。1975年に我々が娯楽映画の中にささやかに込めたのは、「日本人よ、お前は一体どこへ行こうとしているのか?」そんな思いです。

2011年の3.11で「原発なんて考え直してみようよ」と思ったのが3年経つか経たないかの間に再稼動が当たり前のようになっている、キナ臭い話も他に一杯聞こえてくる、今こそ「俺たちは、どこへ行こうとしているのか?」が、一つの同時代性を持った問い掛けとして有り得るんじゃないか。今こそ発しなければいけないんじゃないか。そう言って、若いスタッフが背中を押してくれたんです。この映画は、今後もテレビ局主導の制作委員会方式の映画とは遠く距離を置いてやって行きたいと思っています。どうか映画の話を、子供の頃に『ターザン』の話をお父さんと夢中になってしたように、皆さんの食卓の上に上げてください。貶しても、滅茶苦茶に言ってもいいんです。観客の皆さんが楽しみながら映画の話をしてくださることが、日本映画がもう一回命を取り戻していく非常に大きなステップになると、僕は考えています。この映画のことも、どうぞ皆さんの知人や友人の方に話してください。そして、面白いと思ったら、「あの映画観てこいよ!」そう言ってやってください。それが、何よりも僕たちにとっては嬉しいことです。今日は本当にありがとうございました」

38年の時を越えて、尚お生命力溢れる映画がある。時代が変わっても、尚お強い毒を放つ作品がある。世紀を越えて芽吹いた『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』は、これからも様々な街の劇場で“紙の花”を咲かせていくのだ。
色鮮やかな花葉だけでなく、鋭い棘あればこそ、ブーゲンビリアはこんなにも愛される。

取材 高橋アツシ

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