その時、どう在る?その先、どう為る?-『先祖になる』


その時、どう在る?その先、どう為る?
--『先祖になる』鑑賞記--

『先祖になる』を観た。
東日本大震災で被災した陸前高田市に生きる人々を映した長編ドキュメンタリーである。

「震災の年どこも自粛ムードだった花見を、被災地の陸前高田でやると言う…その呼び掛け人が、佐藤直志さんだったんです」
舞台挨拶に立った池田薫監督は、撮影当時77歳の主人公との出会いを振り返った。

「直志さんを撮ってて、すぐに思ったの…ああ、これは“震災映画”じゃないなって。今どうしても“震災映画”って言われるけど、実は震災映画って全く当たらないんですよ。わざわざお金払って辛い思いしたくないから、みんな観に来ないの。またそれと同様に、震災のことを段々みんな忘れていくんですね。そう言う中で、僕はこれは“震災映画”じゃなくって、佐藤直志と言う一人の樵(きこり)の生き様を撮るんだと思ったんです。直志さんの中に、僕らが都会で暮らして忘れてしまった日本人として凄く大切な精神的なものが一杯詰まってるって、すぐにわかったから」

監督の言葉に、不図我に返った。記者自身118分と言う上映時間の中、中盤辺りから所謂“震災映画”として意識しなくなっていた。

「撮影期間は1年半くらい…車の移動距離は50,000kmになりました。1回1,000kmだから、50回くらいは通いましたか。誤解を恐れず言うならば…楽しかった、今回のロケは。直志さんなんか、俺が帰ろうとすると俺の車を洗い出したりするんだ…「いや、このまま帰すわけにゃいかねえ」って(笑)」

監督は言う。佐藤直志さんの持つ魅力が偉大なればこそ、この作品は“震災映画”の範疇を超えたところに在るのだ。

「最初「この映画、3年くらいかかるな」と思っていたんですよ…そんなにすぐ家が建つと思っていなかったから。それが1年半で出来ちゃった…簡単な理由ですよ、家が建っちゃったから」

魅力などと限定した表現を使うこと自体、間違っているのかも知れない。偉大なのは、佐藤さんの持つ“人間力”…人間としての地力、なのであろう。

「ドキュメンタリーって言うのは、“撮らせてもらってる”って間は撮れないものなんですよ、“緊張感のある画”って言うのが。どこかで一緒になって映画を造るって気持ちになってもらわないと…言葉を換えると“共犯関係”って言うんですかね。直志さんとも“共犯関係”が生まれた瞬間があった…それは、山仕事、伐採ですよ。今や伐採の仕事も重機でやっている…直志さんは、自分の仕事を映像で遺したいと思ったんだね。直志さんって、墓石と墓石の間に木を倒せる、それくらいの腕を持ってるんです」

チェンソーを振るう佐藤さんは、復興ボランティアの若い女性にもモテモテなのだそうだ…わかる気がする。

「『先祖になる』ってタイトルは、僕が付けたんじゃないんです。直志さんや(菅野)剛さんが、震災の年の夏頃から言い出したの、「おら達は先祖に…新しいご先祖になる」って話を。直志さんは、自分が生きてる間に町が再生するなんて有り得ないって解りきってるんです。でも、十年二十年先に…大昔の人がそうだったように…段々ここに人が集まって、集落が出来るかも知れない。その時に、礎になればいいなって思ったんですって。あの地方のご先祖様は、「山(崩れ)に気を付けろ」って言ってきてたんだそうですよ。だから今度は俺達が新しい先祖になって、「海にも山にも気を付けろ」って言っていくと」

“震災映画”を軽々と跳び越えた『先祖になる』は、人間の生き様を、普遍的な在り様を、鋭く活写する。

「(映画の)冒頭でバーンと出るタイトルの文字は、直志さんが書いてくれたんです。普通「書いてくれ」って頼むと、半紙に書くでしょ?…あの人、木の板に書いたね(笑)」

池谷監督の高らかな笑い声が、冬晴れの快い名古屋の空に溶けた。

2013年3月3日、シネマスコーレに於いて
…あの日から、そろそろ2年が経とうとしている。

取材:高橋アツシ

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